2008年1月23日

学位と学歴

学歴制は教育の社会化という民主教育の原則に反する。それらは謂わばblack boxに隠した爆弾を社会に持ち込むテロリストに喩えられる。彼らは修得した知識の不透明性を盾に人間を脅し、揺る。彼らは近代社会では暗黙に合法とされながら、道徳的には犯罪者である。彼らは未成果の段階で集団となって差別をごねり、社会の階層固定と世襲退廃に加担しているのだから。我々は近代教育の理想とした単線学歴を脱構築すべきだろう。それは高等と初等に人間の適性を差別し、身分格差の固定を誘発し、我々の文明社会に対して致命傷となる楔を打ち付けた侭だ。
 この楔を苦労して取り除く我々は新たに学位制としての注射で、深過ぎる傷を仮に治癒する。個性が有した千差万別の諸才能に応じた複線的経歴が、社会から不当な差別に遭う不合理を破壊できる。あまねく均質な人間は凡庸な人間ということに過ぎず、我々の社会が工業化段階を通過し、機械的労働力を然程大量に必要としなくなって行けば行く程、天性に応じた適性の開発は彼らに最善な持ち場を、むしろ柔軟で多様な社会体制側に余地しえる様になるだろう。蓋し学位制度は飽く迄も教育改良の文化的な段階に過ぎず、それが単距離型の武器を教育機関から持ち込むのは避けられない。
 教育の社会化という命題は文明の太平に於ける教育機関の解消という究極の目的を見据えうるが、そこに至る手順には文化なりの工夫が要る。多種多様な学位が溢れて等級づけが不可能なアメリカ社会ではむしろ、それらの間に偏差値を浸透納得させる方が学門間の友好的な教育改革に効果があるだろう。科挙の流れを必然に汲み偏差値教育が隅々迄及んで学閥の癒着と有名大への中央集権的な腐敗が顕著な日本に於いては、学歴制の否定と学位制の肯定が新たな社会正義へ脱構築の手段と成る。