およそ人間では、子の様に純真な心ほど美しい魂は見当たらない。赤子の心、白紙、tabula rasa、童心といった表現で伝えられるところのもの。稚児にあてなりとされたうつくしさの語感も『枕草子』に初出する。
大人と子の違いは主に性欲、生殖欲だから、これが醜さを人間に感じさせる原因かもしれなかった。成熟そのものや、大商業地とか大都会に見られる俗塵にまみれた混沌とした文化状態からの早熟化誘因、つまり世間ずれが邪気と悪徳をもってくる。大人びている子、ませている子にもこの醜さが明白に感じられる。
人間の審美感覚の中には幼い無垢さ、無邪気さを貴ぶ特質があり、これが保護感を親や年長者に生み出すのかもしれない。それがほかへ引き写された時、我執や敵意に満ちた競争的な俗界に比べて希少で守るべきだが、それ自体はほぼ無力なうつくしさなるものが感覚素として自立しはじめた。
最も原始的な博愛などは、子にとってきわめて理解しやすい様に見える。害他性の少ない子の場合この傾向は顕著で、戦争のあるという事がほとんど分らない。すでにある大人社会が功利性や搾取の方法を教え、他人の上位にたったり蹴落としたりする仕業をあとから教えるのだろう。これらの大人社会の模様は少なからず純粋な美からの堕落で、社会があるべき状態からはなれているとわかる。生得的差別や配分の格差もおなじ不平等性を正当化する、大人の知能の癖やそこからきた習俗がもたらしている醜さなのだろう。
おもに純真の特徴は子が保護を要する立場で、人々からの可愛がりをあつめる適性が択ばれた結果かもしれない。これが無限に引き伸ばされると、個体の仕業は対外的博愛へ容易に近づく。同様の現象は幼児の姿がある様々な動植物にもみられる。
早熟にまつわる醜さ、羞悪感があるのは、人々にすばやい成長を感じさせるのが被保護の延長にとってminusだったからだろう。