2008年1月22日

教育公開論

哲学が諸科学の批判的総合を謀る学問体系への漸近ならば、哲学部は諸学応用への根底的姿勢に過ぎない思慮を啓発する事しか出来ないだろう。そこでは必要な知識の伝授習得も後手に回らざるを得ないので、何かしらを学ぶという事は特にない。哲学教育とは助産術の友情的互恵の場を提供するに留まり、其処に於て先生と生徒の区別は意味を持たない。より思索的な見識を発見させえる個性はより相対的に哲学者の資格にふさわしい。
 科学は哲学がなければ無作為な探照作用に過ぎず、決して道徳に繋がらない。知識の目的は永久に道徳的思慮の参考資料を提供するに留まる。大学では知識を教え、哲学者を導く為に、哲学教育としての哲学論文を必修課程にしなければならない。それは学内の徒の相互批判と是非議論によって如何なる科学試験にも代替できない啓発効果を伴う。大学に於て講義の無限公開性は前提でなければならない。若し、研究活動の内容を秘守する為に、或いは講義の芸能化という歪んだ目的の為に、知識とその伝播とを経済力商品化するなら、かくある大学組織は決して尊敬に足るものではない。
 知識や道徳は名誉の為にではなく、飽くまでも人類公益の為に探究されるべき共有の真理であるべきだし、大学側が組織を伴ってその内容を不透明にすればするほど暗箱内の不正は暴く事が為づらくなり、大学自身の内部に溜り続ける不良債権も無駄に生み出す事になる。従って、究極であらゆる大学教育は講義を含めて全市民に公開されねばならない。そうであってはじめて、大学教育の健全な市民間批判は可能になり、その知識や道徳の内情が社会福祉にどの程度の利不利や高尚低俗を伴った習俗であるのか明らかになる。閉じた侭の学門は謂わば閉鎖的な宗教団体に違いはない。