2008年1月3日

人類学

ヒトの性淘汰。ヒトでは雌が審美的に選択される傾向がある。Neoteny化はヒトの学習能力向上の進化質だとして、その原因の一つには女性好みがあるのは明らかである。近代文明にあって美人と言えば先ず美女であり、例えばチンパンジーの雌に比べてヒトの女性は成熟度より未熟度としての多産性を魅力の傾向とする。従って若さはヒトの女性の性的魅力の原理となり、共通の憧れである。また若さは幼さ、つまり未熟な学習期待性へ繋がる。クジャクにとっては雄が審美的に選択される傾向がある。その羽の優雅さは彼らが同種間での競争的性選択の安定した平和環境において、直接的生存能力以外を要求したことを意味する。
 ヒトの直接の先祖たるチンパンジーにとっては、より家庭化への傾向が観て取れる。比較すれば彼らはより求愛行動を分担しない。よって雄と雌にクジャクほど顕著な肉体差は存在しない。
 以上の論旨をヒトに適用すれば、民族間に多少の違いはあっても生存において家庭主義的な男女の分業を担うヒトにとって、性特徴には母性と父性の偏差が観られるに過ぎない。ヒトの性淘汰は相互負担的である。女装とか男装もある程度工夫すれば可能な程度しか顕著な雌雄の差もない。全体としての幼児化が人類の進化を特徴するにせよ、その同種間での性淘汰は緩やかである。全体としては未熟な母性や未熟な父性が好まれる。そして雌雄異体が遺伝的多様性の自然手段である限り、我々の性差が消滅することは有り得ない。中性的な人間は理想像ではないのである。寧ろネオテニーが進展し続ける限り未来人類はますます幼形成熟することはあっても決して性差を失わないだろう。
 現代文明の男女平等は単に権利の法律でしかなく、決して男性化された雌や女性化され過ぎた雄を要求した訳ではない。人口抑制の社会学的方法である女性の社会進出の煽りも、先進文明であればあるほど賢い女性達から真意を見抜かれ、頭打ちになるであろう。