社会正義への道徳監督役である評論家の生業とは美徳養生への最低限度のきっかけであり、それは選良化の中で静かに奇跡的形質の開花が偶有の機会を通じて咲き誇りだすのを待ち続ける忍耐強い育種家の仕事と似ている。
岡倉天心の論説による互譲の精神とやらは、我々の全才能を超えている自然の圧倒的創造力への敬意でありその驚嘆すべき繊細で複雑な仕組みへの利用価値および巨視か微視かに関わらない審美的格式の尊重と、加えて人為になしうる再創造への逆算なのだろう。これを解りやすく紐解けば、創作者の設計意図への謙譲、つまり修繕観こそが理想の趣味論の実質であり、本来の芸術についての感性が才能を遺憾無く発揮できる分野、いいかえると心情の純真、心の良さの実務領域である。詩才が生じる所には同様の観測事実がある。つまり凡庸の他者には見及び難い微妙な不調和への気づきと再修整の欲求が、言葉による利い注意力の喚起を要する。だから詩才あるいは感性の鋭さとは心理の繊細さと一体不可分の相対をなす。