2009年10月28日

自由恋愛の今日的根拠

自由恋愛と呼ばれているシステムの利点は、それが先得的知能の度合いに準じた速度で数量的にはいわばピラミッド型の社会構成員数を夫々得せしめるところにある。哺乳類としての人類の発情期の遠近は、結局その生まれ持たされた知能が、いいかえれば大脳がどの程度並の類人猿から引き離された発達を自然とするかにほぼ等しい。
 そして数々の抑圧の、又は逆の助長のシステムによってこの動物としての発情の速度を調整しない侭にしておくことの利潤は、常にそれらが不可避に用いる不自然な社会的地位の損失を上回るのだろう。だから自由恋愛と呼ばれる、社会環境の中であたかも犬畜生を放し飼いにしておく様な独特の寛容思想は、もし社会そのものが富士の法則という最も基本となりうる労働力種別順の数比を合理也と認めるつもりならご尤もなのだ。
 晩生の形質だけが人類のつくりだした数々の文化要素の後天的習得のゆえに、更に価値の高い文化を継ぎ足す能力を獲得するとしたところで、社会が完全な工学的段階を達したかなり遠い将来を予測できない丈その地域の生業が土着的なら、この郷原の数量的統計を発情への寛大の原則で産業の許す最も低廉で済む社会保障費によって賄うことは是政の福祉感覚にとってごく利口なのである。もし胎生や成長の初期に置かれた条件がその集合発生にとって共通感覚の因果だとしても、郷原層を部落的に大幅には隔離させずにそのみせしめとしての地位を堂々得せしめること、つまり不良の実証は人類という脱哺乳類的中途を経過しつつある多少なりとも安定した遺伝集合の公徳啓蒙へ値するのだ。

 仮に各種の迷惑料を囲い込みで省略しようと試みる一族が現れ、この生態を郷原層とは違う条件で育てようとしたとする。多くの場合は私立学校の中で善良な子女をできるだけ有利な知的動機づけが可能な無垢にした世界を構想したとする。だがこの知識層が現実に、郷原層の持っている生態を目の当たりにした経験が全くない再生産率を達したとすると、我々は人間の奴隷視に一役買う事にもなるだろう。なぜなら彼らは彼らの選良意識かそれとは意識しない過度の気品の為に、この殆ど土人の如き生態と言動を日常とする郷原を同類視しようとすればするほど彼らは自らの常識が通じない相手を却って遠避けるしかなくなる。
『徒然草』に、僧侶がお供に連れた荒くれ者の郷原からなんの他意もないのに機嫌を損ねて斬られる説話がある。この実例かとおぼわしき経験談はいわゆる社会格差というものが、その少なくとも競走開始の初期段階で対話または観察の理解によって、各々の生態地位乃至能力を応酬の海によって寛容するより以外の納得のさせ方がない証拠だ。もし京育ちの甘い僧侶が子供の遊びというまだ致命傷につながる怖れの比較的少ない条件で、不良の実情を生々しい悪業の凡例によって適度な以上にいやがおうにも理解していれば、のちの悲劇は注意深い人物批評眼で避けられた筈である。

 今日の成育条件の中で自由恋愛といわれる発情期への未規制が有用であると目されるのはこれら、社会格差応酬制度への遠慮に原因が求まる。有徳な両親が悪習や過剰再生産率の増長をおそれて郷原層との隔離を急ぐよりは、実際には、理想的家庭という安全基地をある程度は複雑でよかれあしかれ多様な社会条件の内にしっかり確立しておく方が、生態理解込みの侮蔑感情の穏やかな形成という郷原層活用の最たる反面教育上の利益が大きいと思うのである。啓蒙思想が差別思想よりも少なくとも人間的であると認める者は、以上の理由を便宜上真なりと考えるであろう。