2009年12月14日

芸術論の上近代さ

誰もに納得できる論拠かはさても、世界に存在する無数の顕れの殆どはまやかしか欺きだ。それらの奥には主観の、つまり精神の消化できる情報量に準ずる秩序しかない。分けても人類の末裔がもつ感覚器は生き物共の生態系から辛うじて導いた本来は生存用のものだから、もし秩序としてもかなり限られている。要するに、主観は自然現象をかれらの感覚器の転用に応じてしか受容や知覚しない。だから数理では十分に構想できる四次元以上の、時空間より高い次元の世界はもし人類界のまなこでみなせば実在でないか、複宇宙論の仮証面でしか必要ともいえない。
 法案への懐疑を定着させること、脱構築とよばれる方法もこの原則から自由でない。主観の根拠としての時間直観は、感覚器の程に準じた世界をみせ、或いはその転用で別の秩序をしらせる。こういう原則のもとでは、真理の前には単なる感覚の転用経過があるだけだろう。だからこの文章なるメディアを介した、それか主観の属した精神量の外部拡張としての外界感受能に則した善意の最大値はつねに経営的に留まる。
 生計を営むどの生態も個別にみれば一個の経済機能であり、その恒常さは属する、周辺秩序度にもとづく。近い未来には、一生涯を研究所の中でおえる生態も珍しくないとして、彼らの社会経営はやはり生態的だ。自然に親しむと言う者のもっている、自然の意味はあまり明白でない。考え様によっては宇宙の全現象は自然なのだから。おそらく、彼らの考え内には上記の経営論の立場、もっと書き下せば入れ子造の社会学や社会客観の方法が欠ける。
 只の自然対社会とか人為の近代化論には、分析面ですらこういう矛盾があった。芸術という日本語意はこの点では深淵さに秀でる。それはうえる術でしかない自己表明の為に近代化論の枠組み、潮流を突き崩す。かくの見方に則れば入れ子造の宇宙論は可能であり、又その未来は経営論を文化経営の立場に導ける。思われるところでは文化の概念は、cityの延長である市民化としてのcivilizationとはことなりcultureからきた耕作や耕しの意味が含まれるから。そして文化経営論は文明論をその部分集合としてしかみない。文明論そのものは失われないが、扱える生態論の幅を以前にもまして宇宙化、普遍化し認識領域を広げるだろう。
 およそ地理学や地政学とよばれる学野の内にある環境への考え方の分岐、たとえばその決定論や可能論、それらを止揚した文化論などは、この他の運命論なども含めて歴史運動のもとの各生態動向を生業の移ろいのうえに見渡すか見極めるものであり、より進んだ段階では環境学をおそらく形成するだろうが、ついては特に社会性をもつ生物群のつくる環境学野を上述の文化経営知が占めるだろう。そしてこれらの知識はより包括すれば社会学の詳細にすぎないだろう。