2009年11月1日

教育行政の事前対策

米国の大学がいわゆる学歴主義の弊害として、殆ど所得の調整力をもたないのはその国を尋ねた者へは周知と思う。国際人権規約が教える教育費無償化への誘導も、意欲の有無による能力別の進学率ならまだしも、只にしたらどのヤンキーも喜んでまなびまくるかといえば全く逆だろう。現東大でも所得順位でみると、科挙への殿試勉強が一般にそうだった様にこの遠東洋風の儒学的官位甘やかしは寧ろ階級の再生産率を奢る結果に終わっている。いいかえれば、日本の現況で国立教育機関を一気に無償にすると逆に、特に名門校といわれているブランド大学ではそこへの入試志願者の激化にともなって、多年の勉学費用負担をにないうる高所得集団の利点が益す確率がとても高そうだ。
 つまり本来の福祉的意図である階級固定化への緩和としての意欲と才能はあるが、学費に恵まれない所得層の本当は優秀な子どもへの投融資の結果とはかなり遠い結果が、単なる一律一元の教育無償化では出そうといえる。米ではこの危機を、超自由主義的風土のゆえにまったく痛痒にも感じなければ植民政策の効果でつくられた英語圏の広域さに伴って次々集まる移民の保有によって、どちらかといえば利益とさえ考えるリベラルが多い。
 だが人が産業革命時点での英で、たとえばグラスゴー大学の有職へ一修理工だったワットを招いたアダム・スミスの徳性やまさに丁稚上げたファラデーの大きな活躍、開拓初期の米でもフランクリンやエジソンの挙げた業績を省みれば、人事の機械的合理化のみに着目した類いの学歴主義のやみくもな蔓延は、いわば科挙制度下での一階級による官位独占の時代へ退行する隠された差別と暴威のめばえであり、決して最善ではない。少なくとも、何らかの抜け道としての階級化の影響力を弱めうる制度の余裕を持たせておく方が、単なる知的上級生の慈愛を越えて、結局は予期せぬ発明という多元な進路に於ける人事加工過程の化学変化のリターンも大きくなると考えられる。一般に、王侯貴族(日本に於いては公家や旧華族といわれる)は支配率を目あてとし、上述の様な寛容思想は封建権力を弱めるものとして忌み嫌い場合によっては公に法または裁判権を引用した暴力で迫害する。だから、仮に米のリベラリズムが一種の実現最優先への偏りのために急ぎ足に過ぎ、定着や滞在によってただならぬ名誉をもちいるはず渡来した愛国者や親交者を帰化後の長期間の目でみてWASPより無碍に扱うならそれは、人間の格というものを学歴という本来は学資ではなく学識や勉学意欲の付属品にすぎなかった肩書を、理論や技術そのものの創意工夫の才能及び努力よりも高く見積もりすぎた浅慮の為である。以上から、事前にありうべき不測の惨禍である自民族中心主義或いは京都学派の悪用による神道原理思想の声高な復活を教育権の援用によってある程度より多めに避ける豪快な行政手腕には、聴講生制度の確保とそれに伴う国費の規模を予定できる政府税収の内、教育助成予算のかなりの部分を多くとも見積もることが必要である。図書館施設の原則開放もこれに入る。周囲の多少あれ安価な学生街に定着しさえすれば、いかなる社会階層や国籍、所得及び人種出身でもある程度より高い教育効果がえられる地域の自由度を達する事が、すぐれた創造生態の確保には有用だからだ。
 ところで企業への権力介入はライブドア事件以来の情報産業の冷え込みにはっきり示される様に、おおきな市場萎縮の効果を不可避に伴うので、最小限に留めた方がよい、若しくは推してそうす可きと基本的寛容思想の立場からは定率できる。ここで、待つばかりではなく特に技術革新をより喫近とする工学系大学や専門学校含む研究学園街への景気づけたる能動的な対策案として賢明なのは、地方自治体単位の条令で、学園都市周囲の冒険起業人事への学歴差別禁止を諮ることだろう。こうすれば飛び入りした特殊な才能が生き残る確率があがる為、もっと安定した企業成熟をめざす大手とはことなり、いい意味で未熟なその場限りの独創が集積しやすくなる。但し、全面的な国政でこれを独断専行してはいけない。なぜなら進路の極端な放任による人材の過剰流動とそれをとりのがした経営破綻の続出や、成功率につながらない基礎学力の特徴的軽視によるおおよその人事不詳化が確実に起こるからだ。