人類がなにを幸福と念うかに千差万別の偏りがある訳は恐らく彼らの趣味による。だから悪趣味な人民族であればあるほど我々はこれらの生命体を嫌悪感で遇する。どちらかといえば幸福の理論は主観というより、単に美意識的である。もっといえば倫理観の芸術論的側面に他ならない。
私は幸福を論ずることを望ましい仕事だと覚えない。それはアリストテレスの独善も、またカントの信念もどちらもすでに経過した時代背景では、幸福論が上記の趣味観の違いを相当の幅で社会化してしまえること、さらには幸福自体を分析か分解できる生態地位か知的段階にいるのを自覚したからでもある。単純にいって、幸福はひとそれぞれだし生得した個性の限りは少しも動かせない。啓蒙も啓発に劣るほど、社会の多様さはどこもそれを階級論をこえてただの自由主義か勝手主義でゆるすにすぎない。最高の幸福や最高の趣味が定義できるなら、それはアリストテレスの曰る卓越さ、つまりやはり個性の発揮にもどる。個性間の質的高下はもし学識の程度、即ち教養量の段階だとふまえれば、世にはなるほど高尚な人物とそうでない者がいるだけだ。即ちもし高尚さを人格の目的と考えれば、単に、世界にはより学識の高い趣味人とそうでない者がいるだけで彼らの幸福度は、彼らの生態に適した活動の最適さというには他ならない。これらを理解する人物は、こう考えるかもしれない。
どうして最高の人格者も必ずしも人間であるのか、もし彼らがのぞめば世界とはもっと高尚な天界でいいのではないかと。要するに、社会はどうしてこれほど愚劣で醜悪なのかと。種々雑多で低俗な人物がつぎつぎ湧いてでるしくみのわけは恐らくも、末おそろしい終末論へいたりはしないかと。
ライプニッツという楽観論者の悟った世界の合目的性とはそれらの悪が、自業自得の道化であるといういわば自己浄化作用を自然界ふくむ人間業へあてたはてのものだ。私に言えるのは、社会淘汰の加速はみな善意だということだけだ。それを智恵と呼んでもいい。邪悪で卑小な生命体、かれを俗物と呼べばいいが、こういう生態を少しも擁護すべきでないし単に侮蔑で遇すればよいことだ。それで日々世界は直ぐにもより良くなる。「小子、鼓を鳴らしてこれを責めて可なり」と『論語』にある。哲学が善意であるのは、かれの学識をより広汎へ理解しやすくまとめる一貫した論述の才能を、上述の社会淘汰のうまくこまかな説明へ応用できるからだ。こういう道理で、学者兼教師という役をになった嘗ての哲学者らが観想あるいは理想を最高幸福なりと教えたことは、苟にも彼らなりの卓越した個性を自己分析すれば真理だったのだ。しかし、現代にいて、すくなくとも自覚したがる資本分業制をはかる我々には哲学的生活を唯一の理想だとは思いえず、その程度がみえるにすぎない。だから学者の中にも無限の階級がある様に、文明社会にあっても優劣やら雌雄の別はまた限りがない。だが、ジーザスが主張した様に、世界の最高権威にとってはそのどの存在も必然でありあまねく慈しみたまわれるだろうし、仏陀が諭した様に彼ら生物は支え合っておりしかも業の侭になるだろう。