2009年12月26日

社会進化論の本質

上智と下愚とは移らず、即ち集団内に知愚の偏りがあるのは不動だとして、もし可能なら我々が測れるのはこの間にある無数の、又はごく微分な違いだけだ。ゆえ知愚の幅とは別に集団の知識量は、自体が教育とよばれる、あるクラスの属性をつくりだす働きの結果といえる。
 進化の法則と似て、汎知識化や高度な知的達成自体がこの生態を保存するのではない。言語学の内、主要な民族母系がある場合国語ともいう各民族語の推移の規則がそうであるのと均しく、単なる進化そのものが即生存の保証なのでは無論ない。しかし又、我々が生物界に分解者として観るかなり低次元の生態に留まった個体群、こういうものも業の結末としては確実に生じる。すると、社会進化論の本質は実は進歩史観にあるのではなく、成功する群を見分けること、もっといえば各集団間の成長株をつかまえる目算にある。結局、集団の知識量とはそれが用いる趣味観の程のために正しい進路をえらびとる方法である。だから知識や真理というその権威化を目的視する試みは危うい。
 社会では、高い知識を理解できる閑人がつねに限られるだろうから、というのもそこには上述のかたよりがなければならないからだが、真理の訳は集団内での最善の判断の例示、つまり進路の趣で極まる。とすれば、科学とよばれている諸種の分野の考究とはみな、進路の趣を悟る為の道具か理由なのだろう。集団の知識量は、結局最後に繁栄と没落の業を社会や生態系秩序の中で魅せるにすぎない。そして進路としての産業構造は、教養の高い群をそうでもない群から進歩させ、彼らを選種化する機能であるのだろう。