改造された良好な行状を構築的とよぶなら、破壊されるそれを廃棄的という。もし社会や社交の要が脱構築と訳された以前との解釈のさしかえなら、我々が文明の場に観るのは結局の所、作り直しのありさまだけ。だから、初志如何に関わらず構造主義の根本論拠は今なお不確実なばかりかまやかしをふくむ。それはレヴィ・ストロースはじめいくらかの野生界への妥協や回復や反動の措置に用いられた思想段階だったが、脱構築の定義づけをデリダが詳細に行った時点で既にリクリエーションの座を解釈論側へ、既存の科学構築論潮流からゆずったのだった。さて専門家以外にもたやすい論旨に直すと、リクリエーショニストつまり趣味人は、一切の活動の持続した脱構築を肯定する。それはいわゆる遊び、カイヨワ等が主張した被抑圧への昇華活動としての遊戯行動自体を全面的に価値あるものとして擁護し、また選抜や増長する。
人類の思想哲学、というか哲学という言葉は元々智恵、とものめぐみのあてはめでしかないのだが、その理想論がつまりは思考の遊びであり自由市民らにみいだされた理性的動物なりの最良の技術であったことを現代の社交人は、会話の趣深さのなかにもみいだす。話の面白み、とは哲学やら考えのあまねさという遊び心の浸透による。退屈する場合、かれの教養には多趣味さや品性が不足するのである。
趣、を思想哲学の最高段階に置く事の意義は、それが冗長さや長たらしい詭弁を排し最短の一語で粋を穿つ、という詩的押韻の心髄にあるといえる。ゆえに、心に染み渡る詩の一語ずつには、現実に達辞できる最高度の洗練を施した趣味観がみいだされるだろう。我々が脱構築の潮流にみつけだす境遇は又、詩的感覚への鋭い分析力という趣味論の内部でのみ最高の段階を達する。法文解釈へとデリダがこの作為を応用しようとしたことは、長期の眼でみとおせば過ちであり、ユダヤ教の教義をキリスト教文化圏へと落し込もうとした一種の文脈改変でもあり、それが宗教と法政の混同という古代文明の名残にすぎぬかぎりはまたフランス文化の品性荒廃を及ぼすばかりだろう。
法文原理主義への批判や可塑解釈啓蒙の意図は、法三章の現実論が心理の側にある、という道徳学説の改悪を含む。かりそめにも国政の本懐はからかいや揚げ足取りの解釈を差し挟む余地さえあるまじき、真剣で、誠心な忠節への意志である。公共倫理の実現は解釈論にあるのではない。むしろ心の側に、即ち道徳の押韻という法文へ込めた徹底した信念の元にある。独善本来の意味は、善意の純真さを己の反省の中で絶対化することである。こうして、法文脈を最もよく実践する者は又、解釈論にではなく達辞論の側に立ち、筌蹄した道徳律へのあてはめという法律本来の克己復礼の定義へと自律精神を奉仕する筈だ。だから、もし法文そのものが語句の簡略化をどれほど加えようとまだしも、到達されたいずれ文字面でなく、それを解釈する主観心の問題である精神論は幾世代もの新陳代謝にも関わらず決して失われないだろう。
今日法律を定める者は以上の論旨を十分に理解されると良いでしょう。未来の世代は我々よりはるかに崇高な知的段階を当然達する故に、悪法と良法の差はそこに込められ復古された聖人の深慮にこそあるので。デリダの論法は述べて作らず、信じて古を好むと云った東洋の哲人の遥かに格下であることは以上からも明らか。只、その解釈界への扶養の努力は、宗教原理主義の頑固者共を詩的多義性への趣味論の範疇でより和らげられるにすぎない。