2009年11月22日

唯一神の信念

虱潰しの論理である限り全て哲学的な言説というべきもの、さらに書き下せば評論界とは、より数学化された諸学としての科学的知識より、つねに真理の関数では遅れる。私はそのことを忘れた訳ではないがなお希望を捨てたわけではない。ウィトゲンシュタイン主著冒頭の有名なせりふ、 「語りえないことについては沈黙しなければならない」とはもしかすると神の言葉の比喩かもしれない。つまり我々は神の智恵というべき至善の理念から何事も引きだしえない。
 最も極限での完全な知能を想像すると、またそれは絶対唯一神という仏教を除く諸宗教の帰結が、この無語の領域への精一杯の言及の試みであったと振り返れる。そして人類の末端が学問によって得るのは、語りえない領域を最大級に低減させようとする自然体系の総計画の意味を考えた結果であり、またなぜ合理化の作用が自然理解自体とは別の領域で確保さるべきかの訳でもある。理由というものは理性にしか作り上げられない。これがウィトゲンシュタインが辿り着き、また古代ギリシアをのりこえたカントから流れきた大陸合理論を現代につなぐ根本の命題である。
 およそ理想すること、自らの理性という能力で得られた知識群を結び付けつつ世界の理由を考え出すということが哲学の本職であり、かれが道徳をもつと云われていい本当の訳だろう。単に科学的であるだけでは永久に道徳は生み出せない。それは知識相互の比例関係を詳しくてくらべてみてこそわかることなのだ。たとえば昆虫類界や爬虫類界では競争関係が最も合理的だとしても、のちにダーウィニズムとよばれる弱肉強食の全面肯定論とは違い、ある程度より高い社会性をもつ生態、特に哺乳類では協力や協調がいかに多元に及ぶ集合の利益をうみだすかを知れば、我々自身がどう生きる可かという倫理の確信も着実に、単一の知見による拙速を戒めるに足るものとなる筈だ。八百万やおろずの神々という和語が示す多神教の風土はいずれ、他のより厳格な思想の侵攻で過去のものとなるだろう。忠義や博愛を至上理念とする幾つかの既存宗派はこの流れを強力に推進する。そして無言にのみ善意の極限がありうる、という誤った言説を最小化しようという分析哲学の悟りは、仏教での縁起説に於ける神概念の回避をふくめてなぜ実証できない対象を語らないかに十分な論拠となるのだ。これらの概念はどれも理由づけでしかなく、無論それそのものは説得論や方便として高い価値をもつのだが、対して真理としての森羅万象の比例にくらべればやはり特殊化された、一人ずつの信念に過ぎない。
 だから、私は全宇宙系の中心付近に御座すはず全知全能の唯一絶対神という、想像上最高の理想を決して他の中途半端な神達やそれに類する偶像とは別に信じておくのが今日でもなお、道徳に無限遠の可塑性をつけくわえるがゆえに善意であると思う。但し、この実在は信じうるのみ、或いは特定の知性に論証はできるのみで、永久に実証はできない。なぜなら神とはまったくに我々の知覚に類するほど卑俗ではありえないのだ。もしこの理念の中味みなを知った者がいるとすれば、彼はあらゆるかそれぞれの精神の中ではおそらく最も神にくわしい、という理論家の称号を附しうるにすぎない。
 多神教とは低次限か曖昧な侭の、一神教に対する部分集合である。日本神話の中にすら天照大神あまてらすおおみかみの初源がみつかるか解釈でき、また仏教に於ける仏陀とは単に神以下の生態内での慈悲深い学問求道の師にのみ適当な概念であるだろう。各種の低次神とかいう概念は、どれもこれも精神と読んでおくのが適当だ。そうすれば絶対唯一にして全知全能という神本来の意味が失われたり忘れられることはないだろう。すべて、至善の実在へのまことよりほかを述べる者は彼らが目標と定めた中途半端に堕落した生態に安住する傾向を免れず、よって神への道から自ずと戻ることになる。だから、より高い知能を遺伝や文化か生育のうち雪だるま式とか等比数列的に得られるのは確実に、選種誘因をこの偶像軽蔑の趣きとかぎりなく合致させえた生態系だけだろう。