英米という近代化の際に連勝をきわめてきた国家間強壮種が、いざ道徳行動というべき集団でのなりわいに特別長けているかといえば疑問であり、多くのばあい反するか。では集団行動が、もっといえば群れが必須なのはどんなときだろう。それは一言なら防御のとき。つまり鰯が鮪の猛攻を数の論理で
しかし、社会型生物という分業の効用を人類から分化した生命がなおも求めるなら、哲学は不要ではないし、道徳はまたこの結論に従う道を取るだろう。アリストテレスのポリス的人間という表現は、ある程度の防御力が確保できねば生存率の面で危ういことを暗黙に教えてきた。おそらく道徳的勝利ということは、一切の不道徳的勝利よりはるかに社会適応にとり有利なのだ。この過程全域を有徳と則る。完全に社会性を失ったばあいにしかこの原則の解除はありえない。そしてできるだけ簡潔な言葉でいえば、有徳さの最高形式は正義である。道徳があるということは、無論敗退が生存保証でない道理からいって、同等の知識量でありながらなお余裕幅としての道徳量を保てたという脳神経の奥行きについて、多分それが生まれ育ち、即ち品を保証しているという戦場の笛隠しの様な個体発生の中に誘因された祖先種からの功徳によってかれらの中ある者へ、のちの社会内での地位の良さというものを知能行動の極端に集積するらしい。
卑怯な手で得た勝利は業で亡びる。だから道徳を自己目的化できないにもかかわらず、最善の勝利のせめてもの比喩としての仁義忠孝はいまなお、既に使えなくなった前時代の遺物とばかりは言えないのだ。我々の文明が西洋風の科学をまったきに消化しつくせたとして、いずれこの東洋風道徳観の点も修正か修繕の先に、新たに注解を施された理念集のもとへ繰り入れられ復興されゆくであろう。