2009年12月7日

社会批評の性能

既存宗派と哲学の営みの差は、それらの間に論理の注解を施す速度差がつねに生じるという一点に求まる。哲学が、神の言葉自体に至ることは永久にできない。至善への注釈、これそのものは既存の知識間の見比べによる、依然にもましてよりましな道を発見する手段でしかない。
 だが信への接近という点で、おそらく自然研究にもとづく科学知識がふえればふえるほどつねに道徳律の更新がいずれ要求されゆく。もしそうせねば自然学の及ぼす無際限な個性の発見過程は、群れの中に唯一の道というものをますます見いだしづらくした結果、その集団内へ不和や反目や高見の使用化をうみだし、神官階級という古代の陋習を再び科学者への崇拝というあやまった偶像化で引き起こすことになる。ゆえいまだ曖昧な定義ではあるが精神の言葉に過ぎない、としてもなお、世に科学がいとなまれる限りは絶対的に哲学、というそれらの倫理面からの解説の作業が必要である。それは自然学を本科とする教育システムが既存知識の効率いい植え付けでしかないかぎり道徳啓発機能を十分もたないことから、宗教がそれとは別個に用意さるべき道理と相似である。尤も日本という後進の混乱した島国では、歪んだあるいはおかしな独裁者血族崇拝の因縁でこの種の教育と宗教の混同(教宗混同)が起こっているらしいが。しかし、進歩した文明、特に一部西洋諸国の様な遠い場所からみれば野蛮とは憐れみよりも能力の欠けた似て非なる奇形種への軽蔑を招くにすぎない。

 不思議ないいぶりだが、一神教理念が教える神の言葉は聞こえない。それはやはり理念なのであり、信じられるにすぎない。なぜなら我々の身体は、空気や文字面の特有の秩序を恣意的もしくは任意によみとれるだけなのだ。風の意味を知ろうとしてもそれは主観にもどる。
 もしこの徹底した神と我々との非対称さ、いわゆる絶対帰依や忠義のことわりに人心を至らせる彼我論の要因は、以上の神理念の特徴からくる。つまりそれは今日の粗雑な天体知識から述べても飽くまで自らより尊い実在への信念のことであって、およそ無限らしい宇宙では最高の知能とは仮称に留まるしかない。ある生命体が認知できる自然現象の全体は、全人類の全生態の学問的抽出総体よりはるかにずっと大きいだろう。その様な巨大精神にとっては、各種の絶滅や天体間の明滅などなんの顧みにもあたいしない極微な蠢きかもしれない。なぜならそういう生命は我々からみれば殆ど永久に生きるライフスパンをもっているだろうし、何京年のため息、とか数無量大数分の散歩とか、かくがごとき世界は宇宙規模の想像力をもてれば必ず以てありうるのである。想像できる世界はどこかで実現していると考えていい。それが構想力の本来の意図、即ちかの生長の感情的な目標だからだ。これらを考えてみれば、人生、少なくとも既存の文明のどこかでくらす個性が道徳にかなった道のりを確かに歩むに、科学そのものの習得がどうしても専門化を余儀なくするほど食糧生産力が低くて共通貨幣を通じた交換価値なる同朋出し抜きの先取権が存在する世界では、それらをまとめる能力に導く哲学の徒を十分参照する方がまだ理に叶うのは確かだ。
 日本では知識の軽視というまでしばし宗教原理主義が昂進する傾きがあったので、やはり学問たる限り哲学という総合認識の方法が人文学と呼ばれて諸知識の一系統に過ぎないものとして同等の扱いを受けてきたのがみてとれる。だが科学を重視すればするほど、同等に哲学の栄えをみせなければその集団は、当然ながら神官階級を模擬した知識階級による独占支配の二の舞に終わるのである。わが国で京都学派のめざしつつある地位とは、この種の国司的なクラスターであって彼等を除く他の国民の奴隷化あるいは暗黒時代であった中古の様な殿上支配管理であることを認識すべきだ。すべていかなることへも隠然至善の立場にあって世を批評し吟味し正邪を糾す文化教養人が、肩書の恩恵に被って中央国政へ参与するということはあるべきでない。かれらは純粋科学の成果を利口にも商圏へ援用する経営技術層に特有の符号理論的な出世率ではなく、負担理論に基づく外部監査能として、民主政治への正統派良識群からの進歩の度を超えた独裁官僚の行き過ぎへの制動機能の役割に甘んじるべきだ。さもなくば我々は哲学者という随分ひとはよいが厄介にみえる大いなる理屈屋を排斥した結果、国論を遂には知識人かそれ以外かに二分し、永久の反目とふたたび古代同然の寡占階級支配の堕落した少数派の官位独占を赦すことになり、国体の空中分解でければまったく道徳というものを失った獣類と同様の弱肉強食の社会をうみだすであろう。資本主義のシステム自体に、そして教育組織を利用した社会的符号化のさなかに、人間の人格という個性の無二さの意義を排除させ、一個の生産機械へと精神を低落させたがる悪意が侵入している。なるほど合理性は国際経済の競走条件下ではよほど重要だろうが、これはより高い自由人の境遇を事業の各部をさらに自動化する道具の工夫でうみだそうとするものにすぎず、人格の尊重という肩書や地位や財産によらない以前通りの人事徳律を否定するものでも貶められもしないのだ。
 もしほかの社会思想よりすぐれて最も自主努力を誘いやすい資本主義の中ですら完全な互恵制、助け合いへの気勢が欠けているとすれば、それは社会機能のどこかに矛盾があるのだ。そしてこういう指摘は、単にシステマティックな銘柄製造としての科学教育の連続した進歩とその産業からの人事援用による人間性加工の工程では果たされえない。社会民主主義や民主社会主義といわれる資本社会の修正論は、結局、究極では道徳という立場をいかに国政を企業間の競走条件づくりへ適用してそれらの畜生界化をふせぐかという一点へ、元々各種の社会思想をうみだした資本主義の限界命題ごと求まりそうである。