2009年11月27日

記号論の消化

記号間の単位重畳性がそれ自体で価値である、という論理はなぜ既存の文字種の順列にすぎない本なる形態がよくも膾炙されるかの訳あいである。並の順列ではないそれ、少なくとも審美的中庸か極端に理知的なそれは多くのばあい、人為に生み出せる全価値の中でも最高峰のものだ。きわめて遠い時代へ至っても、少なからず言語規則をもつ知的生命なら確実に、これらの順列を希少なものとし又もちいる。ユークリッド幾何学や聖書は欧米圏含め全地球内で最も読まれてきた記号順列だといえるらしい。なぜこれらが好まれたかの訳は、日常に出会わない並びだったからだ。
 我々は国内に幾つもの古典をもつが、梅棹忠夫の情報産業論が先駆だとしてやはり、一民族をつくる大きな原動力は特有の記号配列にあると思われる。Why notという言葉が現れる頻度の高い集団と、止めた方がいいと曰いそうな集団とでは当然、かれらのもつ進歩への関心が違っていく。そしてごく長い目でみれば、結局その集団が保有した順列規則のうち合理性が高い一系統、だけが他の言語種内への文化素の編入率の面からも最も長期にわたり審美的か同類間の共有感を生存率の上に保つ。でないとたとえば一時期に英語が植民地の支配語として、その後の世界構成を下書きした様な一言語の敷衍が当然のものとなる。より単純な科学の言語でいうと、情報量の単位化が順列および一記号単位で積算すればするほど、この語集は他のより複合的ではない順列よりも希なそれを生み出しがたくする。つまり文の美しさを見いだす能力がより高度化しなくばならなくなる。
 故に、もし我々が現代哲学の主流とされた分析哲学のうち、その本質を解釈論をふくむ数列記号論に定めるとすれば(というのも、デジタル信号を省みればわかる様にすべて既存記号をもちいた伝達とは重畳性にしか命題がありえない)そこで問われてきたのは上述の、文理の邂逅なのである。こういう数列規則がもっとも価値の高いものだ、と批評か提示か開示できる論文が、哲学のうち分析を司る本質なのだ。嘗て理解不能さの比喩だった数々の珍文漢文とかグリーク(ギリシア語)とかは、引用される回数が低く意味か趣味が定めづらい、といった解釈慣習の低みにのみ訳があった。だから適応への構造や計略として、できるだけのぞむ言語体系との間で消化への訓訳が工夫されるほど、某母体系のねがう美文の決定性もより、以前にもましてまれともなろう。だが人類が文明内でいきる段階の文化では、こういう記号順列は結局、言葉遊びの社会的な合理化としての小説、いいかえると擬似独白による私説の流布につながるしかなく、たとえば近代文学とよばれていた体系一般と同じくそれらはどれも形式や様式の論究を文字言葉の記述方式で果たす以外の目的に至りえない。もっとわかりやすくいうと、分析哲学という現代の国際的覇権思潮は究極に於いて、デリダが実際にそうした如く擬似文学化という特定順列の権威化を、文面(エクリチュール)とか口語(パロール)とかその種の言文差延の際に施せるにすぎない。これが、私が趣味哲学というより複合化した哲学説を智恵の極度ともより諸評論を包括した総合ともみなす訳だ。どれも擬似文学化は最短音節の理念語への集積を否定する、一種の講演やら散種やらの言いかえに陥り、結果その論説は普及可能さのみならず単なる暇潰しの側面ですらいたずらに衒学っぽい仕種やらいかにも教養ある振りをしたブルジョア俗物根性を養う結末に終わる。擬似教育性にまつわる制度の無駄に於ける大学批判も当然、将来はこの面から行われてしかるべきだろう。つまり実用主義は西洋風ブルジョア支配を解除する方便としてつかえる。
 趣味を軽視し、その意義を見失った時代とは後世からふりかえればみるも悍ましい毒々しき禍々しさ支配の地獄であって、堕落した慣習がまかりとおる時代の記録とはすべて、後生の罪業をますだけに終わる。ことだま信仰の因果応報説もここに属す。たとえば江戸時代の下町の文化の中に、或いは中世の皇族の周縁へとりまいた迎合者らのうみだした腐敗しきった頽廃性質の如くに、高い総合批判力にのりとる趣味の高級さを理念語の威力で確保できなかったときその集団はほかの時代や場所の目からも悪魔の化身にしかみえない。つまり、趣味論は記号論や分析論をもかみ砕き自らの体系に於いてみいだしえた唯一にして最短の理念語へとその全内容物を昇華せしむゆえに、ほかのいかなる哲学思潮よりもなお上記の文理の邂逅にとって本質的なのである。「最高の理念界は最も複合した趣味観念を生み出す」、これが記号順列の単位重畳化を一語ずつの高い配置規律として確約する法則であり、また同時に後生の目にすら目覚ましく古典的完成や参照に足るとおもわせるに至る、文事にまつわる高尚な心理の鍛え方への重要きわまる道なのだ。そしてこの種の趣味啓蒙こそ、いかなる愚劣な体罰などより遥かに、青少年の心情を高級と崇高への挑戦に導く教育哲学の正念場である。古代ギリシアに於ける理想と現実の乖離も又、両者の積極的中庸に至る迄は趣味観念への途上にすぎなかった。