2009年12月17日

形而上学の現代版定義

鬼神を語らず、及び語りえないことについては云々とは同じことを言い換えていると思われる。これらの文面が語る所では、「敬遠」の論語の意味は正当な形而上学の棚上げであって、実証されざる問題は多かれ少なかれ仮説の姿でしか提出できない、という哲学探究の側面を簡潔に言い伝える意図がある様だ。
 我々が社会の、又は人間の問題を考えるに当たっては是非、形而上学の諸問題は敬遠されねばならぬのが明らかだ。これは、某時点での自然科学体系が教えられない内容は推測に留まる他ないところからも、無益すぎる議論が延々とくりかえされるのを確かめられない世界の棚上げで防止する為。故に、おもにケンブリッジ大学の宇宙物理学派が、仮定すればより多様な世界モデルが提出できる、という論証主義の範畴に入るだろう内容で語る時空間四次元以上の余った次元については深入りせず、今のところ敬遠しておく方がいいと分かる。もしこれが実証段階に入れば、つまり観測という手立てでなにかきっかけでもつかめればそうでもなくなるだろうが。つまるところ、それらの論証主義科学とは、いわば数学モデルの多様化の為だけに使うべきもので、観測技術の進展によって確かな実験結果が出るまでは真理とみなすべきでない。同様に、単なる形而上学的・後自然学的・無形的な理念考究の上で、様々な概念の内それがただの仮の言い方にすぎない対象へはよくも注意がいる。例えば老子の提出した道の概念は当人がいう様に相対的・比較論的であり特定の自然や社会の現象と対比すべきでないし、できそうにない。それは比喩だからだし、更には本の上にしかない恣意任せの筆跡が観察と実験に堪える実証概念であるはずがない。結局、我々がみいだすのは分析哲学の観点と同様に、文面の構造の主観からの直観に関する数々の詳細な考察、これはいいかたとして漢語的すぎるならもっと簡単にいえば、言葉の書かれ方というもの、をそれが置かれた文脈の比較検討によってあてずっぽうに鑑みるほかないということだ。
 結論をいえば、形而上学とは主観にもどるのだ。だから形而上学とは主観の学であり、それはもっといえば各個人の知恵の頃合いにもとづく趣味観のいいかえに他ならないのである。幼児の形而上学とは太陽が熱いめだまのキャラクターで、地面には凸凹でこぼこがあり、草は水玉を映すためのものかもしれない。しかしながら、ホッブズの眼では世の中は機械であり、その運動はすべて刺激計画的である。大阪でまなんだ書生の福沢には良かれあしかれ世界は問屋街だった。そしてヘーゲルにかかれば誰もかも歴史の証人でしかないだろう。古人のみた世界をだれも二度とみれないのは主観をつくる成り立ちがすでに環境と教育の文化条件でちがっているからだ。従って世の中には次の二種のひとしかいない。
 一人は主観をおさえて自らみた世界をできるだけ理想化しようとする者。もう一人はその世界を忠実に再現しようとするリアリストだ。ここで、前者を形而上学徒なる厳めしい名前で、後者をそのままリアリストと呼ぶとする。ならば、この二者は時間の経過と共に次の結果にいたる。形而上学徒はかれが観る世界をできるだけ理念に投射したうえで世の中のできごとを分析する癖があるので、その認識は期待に応じて次第にまた理想化されゆくであろう。そして最終的にはかれが観るどの現象ですらも、この理想の眼を通してしか感じなくなる。よって、形而上学徒がいずれ無限に遠い世代の極限ですら全知全能、が現世で到達不可能なのは絶対なのだから最低でもその似姿か近侍に就くきわめて好都合な高い知能の段階へ至るであろうという予想は、主観のフィルターという哲学の本質的達成を見通せば真に理にかなっている訳だ。もしこのフィルターがなければ自然界はなにもみせないし、みせていたとしても美しくもなければ面白味どころか不快感しか催すまい。それらはただの無目的なまでに散乱しつづけていく混沌化増大のかなり普き、熱力学現象なのだから。逆に、批判書に於けるいわゆる崇高論のありかこそ、たとえば俳句にみられる様な自然界の合目的性を直感か直知する能力、もっといえば創始者の叡智への感動が殆ど習性化した能力となった理念の完成度の上、へ求まる。世界に感動しない者は幸福に値しない、と云ったレオナルド・ダ・ヴィンチの歎きは創始者からの学び、自然哲学を志す者が常識からの嫌悪の感覚をもちこしてさえも肝に銘ずる可き重要な懸案だったのである。もしかれらが神への一途な信仰を失えば、醜さや汚穢といった神の前には存在する筈もないなんらかの自然界の変異をみのがしてしまう危険性がある。万一それが古今で最も重要なメッセージでもだ。
 これに対してリアリスト氏は当然かれの主観がそのまま投影する世の中をみるのだし、その習性をつづけていけばやがては想像できるだけ俗化するに違いない。結局ものをみる目や感じとる主体はつねに主観の学の程度、要は哲学によるのだ。
 こういう経緯で、もし幸福について少しでも知りたければ宇宙の計画者の考え、少なくともそう想定するのが適当な隙間ない合理性規則を熱心に学び取ることでしか、それらをいかに覚える可きかは少しも悟りえないことだろう。もしこの理由なる吝かならぬものを考えつくのが理性の究極根拠、即ち我々が知能に託したところの稽古の精神そのものであってもだ。
 さてこの場で明白に定義できるのは、形相界は人知に属し、しかもそれは主観論という形而上学の基盤だったということ、そしてこれらを認識しなかったアリストテレス哲学の段階は現代の共有している仮想現実の考究をなしえなかった歴史時点にあったという史的検証だ。現に我々はこれに比べて敬遠すべき仮説の実在論や観想の幸福論をいつでも回避できる形而上学状態にある。なぜならどちらもただの一趣味説にすぎず、それらが他の思想の試みやもたせた意味を奪取も支配もできはしないので。特に進化論の影響がつよい英米で知的設計論への批判考証がよく現れる背景には、主観が唯一の形而上学徒の窓であることを、史上最も本質的な形而上学の考察にみちた純粋理性批判への敬遠という逆理の業でみのがして現代をみようとする、かくのごとき軽薄さがつきまとっているわけだ。原理主義批判はすでに三批判書の中ではおよそ主観の時間根拠としての一貫した思考の格律という概念で行われている。対して時間を否定できれば我々に一貫した思考の格律、つまり筋はいらないとしても、地球型生命は時間を経過しないと呼吸もできない。信念とか信仰とか言い方を様々にかえたとしても、我々が知性以外の道徳法則を保つべき、という社会性動物としての高度な協業の意識からは全く、形而上学を素性のいい有閑者に適した友情の知識分野だといまなおみとめていいのだ。なおかつ、このまことあるひとしかどこでも信用されないのもまた不動の真実ではあるが。