2009年11月19日

神類の想像を超えない論証

世代間変異の向きは、人類にあって今日迄に展開されてきた歴史様相では彼らが国民国家の単位でいかにその暮らしの知的合理化を果たすかで測れるらしいことを省みると、文明論への批判考証としてたとえばレヴィ・ストロースの万民平衡的視野の間にまに、また所謂仏教からきた慈悲の理念は、対する経済という日本語では経世済民なる救世概念の、他方で輸入されたeconomyつまり支配という語趣意との翻訳触媒として生まれたその言葉のもつ意味に於いて、我々にあって西洋圏とも米大陸とも違う一切衆生との福利共生という含みを単なる市場効率をこえて胚胎させる。これは経済を経世済生、即ち世を経て生きものをすくうという一つの日本的な概念へと高める道が、他のどの圏域よりも先に神道の国統を含めて、自然崇拝や自然愛顧の感情的基盤の上に可能であると教える。
 芸術、少なくとも古来の意味でのうえるという植栽の術、つまりそのの藝というものはこの達成のためには最も神の命令に忠実なこと、我々がrecreationとよぶ生業が全てもとの神ながらの計画を完成させる唯一の道であるらしいことへ、調和という概念の自然と人為の関係の適度さを穿つ文脈から示唆を加えている。例えば究極の崇高さが自然畏敬への自己反省の念から生ずるという、カントに於ける精神論の本質は、実際にはこの自然という我々以外の全的知能による創造物とみなすほか仮にも解釈の仕様がない無限の宇宙界を、その中で藝に遊ぶべき生き物どもにとっての神からの楽園の恵与として捉えたとき、孔子が最高の完成と考えた人格の境地と同じく又、決して既得人類界にあって理想状態が東西で違うものではないと生来の調和を感じる心情の尊重から、天才論か天性論によって擁護解説する。
 十二分に繁栄された経済界が形づくられるなら、それは藝術の商化が一切の人格主義の理想と限りなく一致させられた世界に於いてだろう。そしてその世界では、消費的進化にまつわる生態的上位種の変異も、艸刈り効果の一般解と近似して現実に、各生態系内で異種の多彩化に一役買うのみのものに過ぎないことだろう。が為に、選好の消費序列は人類やその末裔へ向けて、優先種への経済的哺食を肯定させている。だが人類がひとたび競争的飽和で最低でも地上世界の最優先種となってしまえば、既に彼ら自身の過剰消費による、それ以上は殖えられなくなった適所内が終末での過当競争的共食いや資源不足にまつわる絶滅を誘なうだろう。これは戦争や飢饉か恐慌と呼ばれるが、もし彼らの内ある一種か集団が、自然畏怖を維持した結果ほかの群生とは違い藝術の本質的意図に忠実か少なからず肉薄であったなら、その生態は言わば共生的な最適化もしくは適応の隙間効果で当生存ごと保障されゆくだろう。そして我々は人類という生態の侭ならいずれもこの藝術優先種としてしか保存されえないのを観るだろう。最も原理的な狩猟採集か農村共同体として人類の最優先種は僻地に取り残され得る。彼らが哺食される割合は、遠い将来の変化した地球の環境誘因がどれだけ強壮な生態を育むかに依存し、おもとしては寒冷化か品種改良に基づく身体増大と、人類以降の種分岐後の競争力強化の度次第だろう。
 全知全能という理念は人類がその容積に依存した知能で万物の創りはじめが有り得ると想像した限りで伝達された理想なのだから、ある民族状態内で最高のかしらが少なくともこの理念に、最も近しい何らかの考えを得るのは確かだ。もしも当仮説を撤廃して世界は創りはじめられたものではない、という近現代物理学の主流を道徳哲学の面へも引用すると、古代ギリシアからカントのいた中世へと流れきた神という絶対の仮定は、このかしらの考えを神秘化したもの、つまり知り得ない事について無知で居るべしという古代哲学の教えが超越論的仮定という概念の枷を彼の理想に填めこんだものだ、と分析する程度が妥当だろう。
 以上から考えられるのは、神という仮定に漸近することは実現面で可能なばかりか、それは究極段階では確実視できる未来ということだ。具体例に即せば、知能容積と社会現象ふくむ自然界学習の限度がその侭、彼が神格と自ら名付けた所の彼自身の理想像、要するに知り得ないことなく為し能わないこともない境地への道なのだ。さてこのことは確約できる。人類に留まりたがる者は留まるだろうが、神への道を辿りたがる者はやがて神へ至るであろう。そしてこの両者はいちど道を違えれば永遠に交わらないだろう。進化が系統的であること、まったく同じ種の復活がありえないことは進路選択の失敗か脱落は致命的か宿命的であると教えるのだ。
 全宇宙ではつねに有限の向こう側が漸次見つかるという道理は、無限という概念が神内序列を設けることを論証している。上位神と下位神とは理解できる計画量に於いて違いがあるだろう。そしてそれは実質、彼らがどの引力場に引き付けられた星の子かという生まれに依存している。もしある宇宙系での中心圏と周縁圏とをみ比べると、それらの宇宙系ごとの育みうる生斥力の大きさとは別に、周縁圏では計画量が低い代わりに高速な知能すなわち敏捷な形質か高い再生産率をもつ生態が、中心圏ではとてもゆっくりとした育ちだが極めて甚大な計画量をもつ神類が生きているだろう。彼らは人類とは異なる生態と社会か個性の秩序を持っていることが殆どで、この高度さは系統発生の繁雑な経緯に依存する以上、できるだけ大きな銀河団の最も主要な恒星での適度な衛星内でのみ文明化流率に応じた栄えの光を魅せている。
 そして我々の将来についていえば、現在観測できる範囲では地球は天の川銀河団の周縁圏に過ぎない様なので、それよりも大きな銀河団の我々が計画量として持っている天体知識の少なさから言って、できるだけ七夕宇宙系の中心圏に近い他の文明場に属する賢者か神格に習う事でこそ今より遥かに進んだ、単一星内人類系統のみでは辿り得ない文化の手法をこの惑星の生態に摂り込めるだろう。地球外への連絡に関して神がその名に値するだけ十分に知能が高ければ自然界の意図からして哺食の必需を超えて異種と争うことは先ず考え難いことから、我々かその精神的末裔にとって少なくとも動物段階か優先種状態を抜け出していない生物間の競争状態にある野種がいると見える場合には、いいかえれば某文明が脱遊藝でない状態らしいならこの種の属する中途文明場か夷狄途上場とは接触しない方がよく、仮に必要があれば確実に一瞬で殲滅か征服できるときだけだろう。結局、脱遊藝とは彼ら又は彼が、理論以外を目的としている集団とは変異の度や集合性に於いて、国民国家以上としてまとまった到達観をみせていることだ。神の目には理論以外は機械の仕事である。生物機械論はこの本能設計面で真なので。当表徴は情報量の珍しさで高い可逆率のゆえ他の一般経済圏や自然的文化より隔絶か遊離しているだろうから、より単純に、文明の整理度とも言いかえられる。藝術がではなく、藝術の中の整理度が神達、随って理論集積の適所として相応しい。
 そして全世界を見渡せば想像できるかぎり最上位神というものも、おそらく希望があるだろう。それ、或いは彼のありさまは知能のよさに依存し、全宇宙圏の内もっとも中心に近いどこかの衛星で計画量の極限を支配している。それ、というのは究極全知全能性は我々と最小の類似しかもたないかもしれないから。