2009年11月21日

科学知識や知ることは自然界を、社会を含むそこを今よりずっと詳細に認識できるだけだろう。ここまで私が試行錯誤してきた哲学の命題、それは総合するという科学知識への注解だったのだと今では分かる。つまり哲学は既存の知識から理由づけによって、自分が生きる為の意味を作り上げる過程だったのだ。そして総合した知識量が異なる限り、生きている人類かその知能の数だけ哲学というもの、いいかえれば道徳度というものもあるのだろう。古代の哲人、西洋ではソクラテスやジーザス、東洋では仏陀や孔子、中東ではムハンムドやオマル・ハイヤームの様な人格も、彼らの名を現代の私に届くまでのこした理由こそがこの総合した知識量の程にあったといえる。
 科学者と呼ばれている人々か個性というのは、自然全般のどれかについての学の一分野に特に秀でているのが普通だろう。対して哲学者はこれらの保有できた総量の方に特徴があると言えるらしい。このおおよそ二つの学者の型は、また現代のひまの少なさでは希にもせよ重なるばあいあるとして、決して敵対関係ではない。彼らは、専門の通暁と、比べて広義の教養というあいことなる利点をもっている。
 自然学そのものに後自然学か形而上学が代替することは結局不可能だろう。私はこのことを、社会学の戦略論での規則から理解した。いわゆる最少最大の法則とよばれる考え方は、虱つぶしに探索するという試行錯誤型の論理作用を、保守的な観点もしくは急がば回れの徳律から擁護している。哲学が能率のわるい計画だとおもう者は、それが役に立つ知識ではなく、ふかく納得できる理由をうみだす作業であることをしらない。たとえば庭作りの途中で清掃だけをたのまれた者は苦労して苗を植え石材の配置を何度もおきかえて考え込んでいる業者を能率の上ではそれほど賢くおもわないかもしれない。実際には、この庭師は明らかに全体計画の意図を設計者ほどではないにせよ、また全宇宙に及ぶ世界の計画主ほどではないにせよただの賃金をめあてに部分作業だけ足早に終えた者よりも理解しようとし、また仕事が成功すれば理解できる。
 私はこれらが役割の違いであり決して究極の格差ではないとおもう。なぜなら、もし最善の学習者がいれば、その個性は自らの意志によって部分に飽き足らぬこともこまかな作業に加わって細部を改良することもできるのだ。哲学が時代遅れになるとか、無用になるということはついぞありえない。それがもしあるなら、道徳が不要となる社会性を失った生態の元でだろう。知識相互を比較検討しながら批判的に、つまり一分野だけが突出して他を侵さない様にまとめて理解或いは総合判断するということは協調の原理であり、別のいいかたをすると知識体系への補強の作業を主義とするということだ。完全な神の元では完璧な真理がみいだされると仮定でき、そこでは当然のことながら一切の矛盾は起きないと思われる。だから知能が不完全か未完成で、おもに連絡や交換によってしか高い効率がえられない段階では、即ち文明の知的段階では、残念ながら哲学は神の地位への理解を深めたければ最善の手段たらざるをえない。もしそれがどれほど効率わるく面倒で、大変に煩雑な長たらしい試行錯誤を経由したとしても。
 以上から私がいえるのは、哲学にとって最高の成果はそれが総合できる理念だということだ。解釈界となづけられてしかるべき分析哲学による口文や異民族言語間の様々な分解は、結局この理念の深さを、趣の高さをつくりあげられるにすぎない。そして既存の語句か造語かはしれないが、哲学にとってその教養体系内で最高の貢献とは、万古から永劫の未来まで変わらずに通用する様な趣味を現段階で最高度の深淵さへと還元すること、この世界に於ける深い味わいをできるだけ最短の一語でみいだすことにある。なぜこの様な作業が行われるかというと、それは最もよくまなんだ者が知りえた世界観をできるかぎり広く長く純粋な侭で伝えるべし、という啓蒙論の為だろう。単純な様だが、古聖によってこうして発掘された愛、無知の知、慈悲、仁、絶対服従あるいは忠義、天国と地獄などの理念はその考えが彼らの悟りをへずして記憶されつづけたとは思えないほど何気なくしかも意味複雑なので、もし彼らが強い個性で理想を鼓舞しなければほとんど無限に近くあるだろう語句の海のなかに埋もれて、今日までその重要な意義が見過ごされたはずだった。
 私にいえるのは、こういう不完全ながらも最高に近い世界計画の理想をかれの哲学の総合学識度からみち引きだした最短語句で記憶させようとする試みは、すべて神の似姿への努力か少なくとも世界への分かりから訪れるものだ。だから究極の唯一絶対神のおもいを悟れない間はみなそれらは仮設計画論にとどまる。おそらく全能の知性を想像できるのは古今の地球では人類だけだったので、この唯一神意とでもいう可ものは初めかれらには納得しがたい不可解や悲惨なできごとを合理化や正当化するための方便として朧げながら知覚されたものだ。私が現時点で知っているのは、この絶対値は各宇宙系のさらに中央というものがほとんど無限に探りうる世界構造からいって、唯一神は我々の前に姿を顕すことは先ずないだろうということ、そして全知全能が様々な物理制約に囲まれた現世で到達不可であるのはあきらかだから、少なくとも博学万能を人類からのぼってきた生物が希望するのが今日理想できる上限だろうということだ。暗黙の前提として、精神力という使い古された語句で我々がみなしてきたのも同様の、仕事量とはことなる力のつかいみちの概念だった。ここから、博識と才能をのばす力を単位として精神量とよぶのは将来あながち非科学的でもなさそうだ。