英人M・スペンスのシグナリング(符号化)理論のもっとも主要な誤りは、おもに学歴獲得用の費用が各自や各家計で異なるという、教育投機への資本金の社会的不平等さを無視か省略した前提として論を進めていることにある。つまりそれはケインズと同じく選良主義の偏見(俗にハーヴェイロードの前提条件といわれるそれ)を前提に置いている点で、通用する範囲もせまく或いは資本主義内での貴族趣味、紳士の理屈に過ぎない所がある。
具体的に、この符号化は同一の努力、たとえば学習過程を大幅に試験用に省力化できる学習塾の様な抜け道を利用できるか否かといった世代間所得からの投機資本の度合いを無視した段階での努力個人差を絶対視するものではない。いいかえると、大して頑張らなくとも一流の進学塾講師から秘伝を授かるお坊ちゃまお嬢さんと、ほとんど泥沼的家庭で貧乏子沢山を地で行く煩雑さの内で黙々とだんまりを決め込んで無償支給のチャート式を解かねばならない生徒とでは、明らかに意図もしくは学歴用初期投資が異なる。ほぼ装飾としての符号化は、実質は富裕団の資産増徴の結果であり、「実学」なる東洋語彙が示す最小額での最大成果の学習(それはプラグマティストの姿勢だ)と異質なばかりか目的を異にしている。つまるところ、シェークスピアとディケンズの教養はその獲得に費やされた額のみならずそもそもの出版が、経済学の主要命題たる福祉効果の合理性かそれとも経営学とか商人のてぐすね引きとか呼ばれることも屡々なうまい稼ぎ方のハウツー読本なのかで趣が違う。善良な婦女子に好まれるのがどちらかは今更いうまでもない。ここで私の論破が雄弁に過ぎるとお思いの方は、スペンス氏が巧く最少の努力で最高の符号化を施したことを疑うべきではないだろう。それも伝統に屈せし偉大なる紳士の徳かもしれない。
つまり、私が批評家風の観点からより現実的な理論を提示するなら、逆符号化論、即ち生物学に於けるハンディキャップ理論を人為社会へも少なからず適用した学歴の負担化理論も当然考えられてしかるべきだというのである。この負担は、たとえば上野にある某神社への坂に二種の粋な計らいがあること、つまり男はより険しい道をえらぶことでかえって自らの努力係数を誇示できるという町人なりの道徳は、彼らか彼が同一の結果的仕事を為す上で最少の符号化を練ってからそれを行うとき、企業内合理性ではなく社会福祉の効用面では最大の外部経済に繋がる経験則からきたのだろう。
もし符号化理論が初期投資の不透明や不平等を可視化できていない欠点から、経済学に於ける微視な内的合理化の文法に過ぎないなら、なるほど部分最適化には適うだろうが、これにすなわち負担化理論というものは少なからず有性生物界全般と共有できる巨視の規則をもつことになる。なぜなら学歴ではなく学力を、装飾ではなく質実を、華美なネクタイではなく燻し銀の心意気をより趣味が合うとみなす精神は決して功利性を無視した訳ではないのだ。たとえば不治の病にある少年が希望をみいだすのは生まれながらに最大の初期投資を約束された主ではなく必ずやできるかぎりの配慮を払って努力家の面を隠蔽する側へである。負担化理論の効用の関数はそれが符号の及ぼす企業人事内の心理戦を十分熟慮したものであるが故に、符号化のいやおうない趨勢であるプラグマティズムへの援用、直接には議論ごと回避されるはず努力の価格差を単なる日本的経営の古きよき側面を超えて直属の上司へくりいれさせるだろう。