2009年12月8日

統一文明の破格合理性

世界の内に複数の文明、およそ無際限な迄のそれらが見つかる、とは生態なるもの自体が定着の理論でしかないことの間接代だろう証拠だ。つまり言語の違和をこえて、小売り貿易への徴税からの制約は母文明内の定常観をいわば国民の囲い込みで果たす為だけに、この系への最小単位を標榜したがる事。国家の間の制約は、また文と言との関連づけへの注解、かの種の文化の場面ごとの差の延長もそれが土着さへの一種の擁護たるかぎり民族毎の動向には偏差、片寄り、格差、幅を設けるのだろう。
 終りでは宇宙間の移動は技の上で可能となり、また生物か有機機能をもつ造られた機械の人工情緒でかはあやふやだが、何れにしろ多文明間での交通や貿易も当然起こる。今更ひとはこの不可能さを、宇宙間の実証主義のあいまに忘れ給えない。即ち、文明間の移民は国家という旧態を遠い先には、ただ単位系としてしか顧みないだろう。
 土地定着と文化の係わりとしての母文明説は、実質はほかの社会秩序との取引を制限する策謀やありきたる作為の故に唱えられている。それは市場の囲い込みへの国民への納得をはかる勢力としての国家主義政党、なる性質が及ぼす一つの誤謬か行き過ぎなのだった。つまりは国家と政党とがかくある様に、文化への殷賑の終局では文明と政治すら同様となるし、そうある可だ。なぜなら国民という概念は、政治学の中でも土地定着という保有した固有の領土をもとにしか十分な定義を宛がわれていないのだ。民族は彼らがそうみなす語族の一部であり国民国家運動とは本質で違っている。さもなくば方言もみられないのだし、そういう異なる方言の地域間が協力することも難しくなるばかりである。
 これらから結論すべきは統一文明の脱構築はそれがもし外来の使節によってではなく内部からのなんらかの革命か改修の意図で行われる限りで、たとえば領土そのものの譲渡とか分割統治とかそういった突然変異ですら国民国家の内容にとっては、将来へ大いに寄与するらしい経世済民風演劇術だろうことだ。この論拠やら言い口を乱暴だとか危険だとか思う者は次ぎの如く考えてみればいい。外来文明で一気に占領されるか、それとも自らの意識で徐々に母国の内に複数の異文明を呼び込むかではどちらがより平安かと。
 要するに国民国家の理想は、その内に複数の語族と民族間領域とを設けるという分国統治の方針によって、今の集権的な対外防衛を基準にした体制よりはるかに、それらの合間に生じる各種の文明含む文化諸段階やそれらの重複さるべき変異のひろがりを澄みよくする。但し、私はこの理想をいますぐに国政へ転用せよとは口が曲がっても言うつもりはない。勿論これは状況が十分ととのう外敵のなさ、や貿易制限の必要なさが地球経済の必然段階としてかくの圏域へも及んでからの話だろう。たしかに、UKが分割統治の道を歩みだして久しいこと、これは特にイングランド一国の極度の合理主義化をはかる上でEU内集団的安全保障の思いやりもじ込みでも大変に効率がよく、王冠への忠誠という連合国としての体裁は、対外な危機への対応も可能とする。
 我々の諸国、いわゆる廃藩置県以前の旧国名が示す位の統治の伝統にかなった範囲で継ぎ目のない各語族が亦それぞれの文脈を走り抜けることは、東アジアのある程度の平穏が前提となるとはいえ現時点でも、地方自治の領分でまったく自由に為される方がいい。なぜかといえば、こういう諸国連合の名義としての日本を掲げるかぎりそれらのうちに無限の奥行きや変異幅があった方がむしろ、あるときの将来の地球外文明間移民にとっても、それに反する大多数を犠牲にしなくてすむだけうまいやり方だとなるので。こういうもとからある性格の違いは、諸国民の性格、もっと詳細にいえば県民性や郷土性のなかにも実に多彩にみつけられる。そんな既存の条件があるにもかかわらず、唯一の国司あるいは一地域出身の専門官僚の意図で全体を一元の目的、或いは首都再生産へ向けてのみ管理するのは害はあり益はないことだろう。それは自然に於いて原計画者やその仮説が行っている神妙な操作、或いは気候の差を無視しても香りだかい文化は不能となる作付けのわけと等しい。
 国連での会議も、いずれ同等の悟りへさまざまな試験の結果至るはずだ。つまり全体の文明化や一律の保障は多くの矛盾や反体制発生で諦め、連合国の名目でそれらの最大限の自律を最善とみなすだろう。そしてバベルへ聖書の神が行ったのと同じく、きびしい統一化ではなくゆるやかな解散化をこそよりもっと現実味のある地球文明なる目次の伝達方針な様だ、と考え直すことになるだろう。