2009年11月6日

食料製品の情報量付加論

その考え方がどの時制で伝えられるかとは別に、島国では総生産量の絶対的不足から汎用品需要は最終的に全面輸入化するという法則(卸し価格の大陸依存法則)は同時に、内国での既存の汎用品目がいわゆるブランド化、銘柄つき特産品化によってしかその侭では生き残らない将来を予見させている。
 具体的な食料品市場に即していうと、農産物が地産地消を直接消費の的とするのは、輸送費分の購買量の関係から島国内では真であるケースが殆どだろう。例えば薩摩芋やジャガ芋、砂糖黍と甜菜の有効需要が国内のどの地方で最も大きいか、つまりどこで食べられているかをみればよい。人類もまた農耕文化を引きずる土地の子である間には、土地に独特の作物を食する中でこそ地方独特の形質や性格が育ってくる。
 ところで食品産業の中には加工や料理の分野がある。そして上述の特産品を最も決定づける方法として正統なのは、この加工や料理の方法論を秘伝か技法として確立することによる。農産物(ここでは魚介類や栽培した自然作物を含む概念とする)を地産地消という土地定着の概念から大きく引き離してもなおも新品係数を保ち続けるのは、この食品化の方法論にもとづく。なぜならその製品情報量が他の土地ではまねがたい何らかの工夫によっている場合、更にこの工夫が気候と文化という土地の特徴を拡大させて示す場合の誇示効果は指数関数的に増大するが、明らかに当製品の珍しさは農産物の価格を販売用付加価値として増大させる。
 例にとれば京都産の八ッ橋、茨城産のほしいも、北海道産の白い恋人、こういった土地独特の製法に基づいた作物はいわば食料の作品であり、その地方文化に特有の性格を伝統の品性とか素朴な感性とか巧妙な計算とかへ結晶させている点では、単なるなまの収穫物そのものの販売よりずっと特産品化の正道となる。そして日本の様に海洋を除く農地面積そのものが大陸平原国に比べれば絶対的に不足している環境条件のなかでその土地生産性を所得面から高度化しようと努力すれば、いかなる内陸的量産ともことなり、この様な食品加工の技術的な多岐多彩に生き残りの戦略を図るしかないと思われる。お米に於いても地方の気候に即した品種改良によって、たとえばミルキィークイーンとササニシキでは味から粘りまでまったく質に違いが出せるとすれば、この食料作品化の工夫が特産物の文化的製造の中へ十分活かされた結果だと言える。こういう製品が既存及び開拓された農産物の生産力の上に多数かつ多彩につくられることになれば、いくら狭い国土であっても輸出に堪える堅調で先行き明るい食料品市場はどこまでも豊富につくられうるのである。
 更に、もしサービスとしての料理の振る舞い分野もこの作品化の意図の内に組み込めるなら、たとえばきりたんぽを鍋で囲んで食べさせる秋田式の田舎農家風料亭とか香川式に立ちながら素うどんを啜る庶民派簡易食堂とか、築地市場に程近い江戸前式の高級懐石寿司屋とか、地方の特産品をくみあわせつつ土地勘のよさによって最適化した経営を適宜はやらせれば、それ自体が食品の特産性をさらに強調する役に立つ。
掛け替えの効かない情報量の高さを食事経験の一回性の演出で果たすなら、いわば食道楽化でその料理へ期待できる減価償却後付加価値はおよそぐっと強化されるだろう。