社会系で最も価値のある華は自律精神のそれである。この道理をいえば、分業の最大の合理化や可塑化とか粘土化は宇宙系の中で我々の文明がどの位置を占めるかにも密接に関連する。自律自体が斯くある如く、性格の多様さは実際には、現実社会の現象や象限で考えるだけなぜ自律の高さは構築論の下にある無数の有象無象を保証しているのか、つまり個性のごく複雑な出方はどうして社会性というその協力の意味を説明づけるのかに満足できる裏付けを与える。これは社会が個性の快適さの重なりであろうとし続ける間、個々人の間の幸福追求をいかに折衝していくかに光明を照らす観点へと思考を誘なう。現実論が教える所では、快適さの水準や基準というものは、社会性を福祉という多数の助け合いと矛盾しないかぎりで合目的だというのである。つまり、最大の快適さは端迷惑でない個性の趣味観を満足せしめる所にある。
知性を唯一の不動の能力だと論証した者を私は無知にして知らないが、理性についてそうした者はいくらもある。だが古代では理知の境は明白でなかったことだから、本質からすると趣味観の複雑さとはありうる知的変異への想像できる最大の非干渉則に法る。知性がつねに進歩した生態を形作ると仮定すれば、理知の混同はさておき、最高の幸福という品性の目安は多数の快適さを上述の自律精神間の功利主義として追求せしむる勢いに基づく。だからすぐれた選種誘因が斯くある如くに、社会性の合目的さとは知的変異への注意深い、且つ思慮を凝らした剪定と撰良の篭絡乃至調略下にある。
哲学不要論は結局、この観点、即ち品種の選抜を無視した知的生産性の結果なのだ。結末を見通せば、些か残念な事だが、趣味観の完成度が十分でない社会集団からは著しく不稔という意味で下種か奇種しか生じえない。この理由は、主体価値や価格という主観の学位(この学位とは格の程度に限っては必ずしも現世的な保証がある概念ではないが。小乗と大乗の説を鑑みよ)が前提とならねばどの変異も見逃されるか他の取るに足りない変種との不可避の混同で特徴の減衰を余儀なくするからだ。達辞は原則として、かれが把握している諸生の構想論に幾らかの猶予を設けたいわば庭づくりのありさまに酷似している。勝れた庭はこういう道理で、只に達人のわざ。