2009年11月11日

理屈の効用

世界で最も最初に神の概念を発見した者はそれが及ぼす驚異的な伝播能率の為に、彼自身の知的上位性を預言者という形で保存したがった筈だ。もしこの試みに世継ぎで成功すれば神官階級を独占できた筈で、現に、幾つかの地域ではいまだこの名残りが実在する。ユダヤ教徒、バラモン教徒、そして神道シントウ教徒は土着性の強い姿で残った神官階級の末裔である。彼らの始祖は属した共同体の部派闘争を鎮める方便に、理解不能性の比喩として神概念を用いることを思い付いた。絶対唯一神、汎多神、一族神などの地域風土に由来した多種多様さはあれ、どれも超越概念を確信として伝播することでは同じである。
 もし人類内社会が超越概念による人心掌握の業を既に今日的でないと見なすほど進歩した知性を確保すれば、しかもそれは社会であればこそ多数必要だが、彼らの一派は確かに世界宗教を終った試みとして伝統芸能面でしか省みなくなるだろう。具体的には、政治と宗教の関係は完全に分割され、二度と接触しなくなるだろう。なぜなら狂信以外の合理的方法で協力可能な群生は、確実により知的な集団関係の処理を可能にする。だが最も伝統的な方法としての信仰による教化は、最後まで原理主義群での基調となるに違いない。この方法の利点は戦争目的の正当化を熱狂によって確保できること、いいかえれば説得の省略にある。ゆえに生態が知性を保有したがらないほど、理屈抜きに一致団結できる宗教的群生は神官長の独裁に理想的となるのだ。
 今日考えられる限り最も協力行動にとり合理的なのは、共通の利害をまとめこんだ理念への帰依を誘なうことと考えられている。たとえば民衆政治とか自由主義は最も先進国内現代人らの間で好んでいる文化素だと言える。仮に真偽が危うい場合でも、理念はいくつもの知的省力を施した単純化された考え方なので、少なくとも強い内省力をもたない個性らの行動を一定の型で支配するのに急速である。
 主義とか思想と呼ばれている各種の考え方は、結局それが政治結社をまとめるのに役立つ限りで使える実用の手段であり、究極の真理ではおそらくない。もし究極の真理とよぶべき目あてがあるとして、それは人類が研究肌なら分かる様、無際限に細分も拡大もできる自然界の果てしなさ即ち無限への知的解析による永遠の接近過程だけだろう。最小の単位も最大の単位も人類の限られた大きさと生存期間内の知能には永久に確定できないだろう。つまり、超越概念の段階的仮設による漸進的な理解と微積にしか知性本来の意図はない。これが教えるのは、最高の理念というプラトンの考えは原則として当為だが、現実には実在ではないということだ。だから理想するという知的機能の哲学性の中にしか本当の神聖さが宿る余地はない。さてこれがどうして哲学の結果が政治行動に引用されがちなのかを示した理由であった。この真理探求のせめてもの仮設物としての理念という結晶は、大変に利用価値の高い説得力をもつ合理性集積の進んだ滋養分なので、単にそれを先にひそかに確保して神官や預言者を大勢へふるまえばたとえ自らが考えついた考えでなくとも、無知な人間を帰依させるのは比較して容易である。この説得効果は理念の超越概念化が緻密に進めば進むほど高まる。神の概念がかつて旧世界を席巻した様に、真理への集積された理論的発見の漸近が進んでいればいるほど、知能の高さの誇示としての理念価は同類説得による支配力をもつ。以上から推論できるのは、学者の多い集団は理屈の効用によって支配圏を広げるといういわば戦争行為による征服の常識とは正反対の、社会的因果の真相だろう。碩学が多ければ多いほどその集団の協力に入り込む知的順位制は複合される傾向があるので、最も原始的で単純な超越概念素である神への帰依のみに留まった一群よりはるかに、内的知能指数を変異づけうる。だから政治家は、少なくとも完璧な勝利を収めるつもりのある政治家は一時の征服ではなく、決定的理屈を志すべきなのだ。もし理屈で劣る様なら征服を試みるべきでない。なぜなら相手の知能の方が優っている以上、たとえ一見した武威によって相手が攻撃のそぶりを収めたとしても結局は機を看て逆襲され最終的勝利を奪われる。しかし裏をとれば理屈で劣る相手は征服可能だと言える以上、この秘伝じみた権威をいわゆる能ある鷹の風で決して無用に振るまい歩くべきでないのが明らかである。つまり達人剣術の様に、知己の過剰な誇示はその派手さの為に無駄な威嚇の結果を不可避に伴うので、特に国家単位では警戒心を誘い、包囲網を敷かれる場面がとても多い。威嚇は怯えた者の武器であり、自重は思慮深い者のそれである。ところで強すぎる自尊心のため普段から部下へ無益な叱咤を好んでいた者は自らが真の上位者になった頃、いつどこから裏切り者が現れるかしれずにつねに警戒心をゆるめられない。こうして実際に訪れた高位での自由の能率が阻害される。
 だから、政治家がもし相手の才能を見抜きたければ、その人物がどの程度理に屈強かを注意深く観察せよ。もしこの才覚が誇示の装飾を取りのぞいても本心から劣る様なら相手を何れ平定できる。しかしどういう擬態にも関わらず決して軽視できない程なら、その時は相手を侮る代わりに同盟を結ぶか又は服属するがいい。こうすることで地位秩序の中で最も有利な位置どりを、実際の衝突以前に最小の被害で続けることができる。無闇に利口ぶる者が本当に賢かった試しはない、或いは聞き齧りは怪我の素とは兵法以外にもあてはまる諺である。もし彼が十分畏いなら臣下忠実な批判者の立場に留まり、いずれ孤軍では戦えない仲間の軽蔑を後から態々買う様な一芝居を打つ必要はない。これがなぜ多くの役者を儲ける芸能界では道化と俳優が違う職分をもつかの訳だろう、彼らが共におのが個性を誇示するにせよ。