2009年11月25日

雇用レベル保障法案

そういうこともないだろうが、サッチャー女史に憧れまくった竹中平蔵氏がしばし金融座右の銘みたく掲げられる某せりふは、おかしな古代人が政権与党にたまたま属そうがやはり眞を穿っており、こちらは冗談ではなく自由主義の原則として、救貧法をのぞくすべての弱者救済の手はかえって国民の怠惰を誤った甘え方へ導くに過ぎない。
(経済のアップルパイは必ずしも大きさだけが食欲増進を誘うとはいえない。そもそも消化能力の違いや胃下垂のばあいも考えられ、かれが求めるのは分け前よりもパーティーを抜け出して月見台で冷めた空を眺めることかもしれない。)

下らないことの様だが、通貨収縮は自然な事業淘汰の面では最高の指令である。

 偽善者は人間の堕落を結果からだけ観察しがちだが、もし物語をよく読んでみたことがある者ならすべて、宿命とは業の結果であると認識した試しがあるだろう。
(光源氏は不幸のどん底で死に、雨の浮き橋は発狂寸前で尼寺へ駆け込む。そういう結末はみな、彼らの自業自得を覚らせるため物語られたのだ。)
 ゆえにもし社会不安のいくらかが増大しようと、具体的には信用できる世界宗教の迫害さえおかしな神道政府が行わなければ当然、十分すぎる慈悲心の発揮は助け舟を出すのを元来の仕事にしたいくつかの宗教法人への無為な委託事業でしかありえないのだ。
政府がこの種の一時拠出へ先駆けるということはなんといっても賢明ではない。こういった筋違いの慈悲は同時にかれら自身が発行した代替貨幣の銘柄を、少なくとも国内では軽蔑すべきものへ格下げする。

誰もに全面肯定できる論拠ではないにも関わらず、某評論家がいう「一律課税方式」による新自由主義の方針は、おそらく現段階で内需をもっとも合理的に拡張できる大胆な政策である。つまり強すぎる累進制御をできるだけ解除するのだ。
それによって生じた流動化した金利の上はね狙いへ伴って、これまで抱え込んできた国内株式市場への投資意欲の弱さ、いいかえると日本的経営の最大の負債である不必要なまでの資本流動の固さ、一部階層への圧倒的な資本の偏りという景気循環の妨げとなっている最悪の保守主義をいわゆる外資の向けかえで破壊できる確率が高い。
特に、私のみるところでは経済力に国際的な福の神をもちこむのは、実際には大部分が大変に金融業への造詣が深いユダヤ系の資本家である様だ。
宗教と経済を分けて考えたこのない人格は、かれらが信教の自由を愛し、ともに少数派であることを真剣に反省してみた方がいい。
(第一次大戦後のドイツの様な社会状況は、現実にはマルクス的階級闘争の結果ではなくて、もし公立図書館さえ全国民へ開示されつづけているなら単純に教育投資を出し渋ったか自ら退けた下知者どもの業であり、我々が天皇制という全宇宙でも相応家格の高き地位におわす方々への模範としての役割を期待までは欠かさない限り、英明な王者や君主というすくなくとも象徴の体面だけは、国民への絶えざる倫理啓発に欠かせない見世物となるのである。)
より単純にいうと、勉強しなかった者が落ちぶれるのは童話的によい社会力学なので、我々はこの作業を否定も除去もすべきでないし、完全に放任しなければならない。たとえそれで可哀相な境遇をみていられない忍びざる者が救貧の生業を興すとしても、なおこの業をも世の栄枯盛衰にかけて放置しなければならない。

 但し、単なる労働風紀の面からいって日雇いや派遣社員など多くの不安定な労働雇用を企業へ安易に採択させないために、法的にこれらの使い捨て雇用策の抜け道を締め上げる工夫が欠かせない。具体的には、政府が支出するのではなく、非正規社員への最低限度以上の社員保障を使用者義務として、改めて明確に憲章化すべきだ。
はっきりというと、試用期間を除いて、『雇用レベル保障法案』の如きものが全国民へ開示された透明度の高い政策立案過程によって、また力強い確信を以って樹立採択されるべきだ。
それは労働意欲を自主独立の心構えにいざなうためだし、努力家とその頑張りを旧来通り愛し、怠け者を冷酷に扱うべしという勤労義務への立ち返りを雇用契約の厳格化の面から全体のアップルパイ配分法益ごと見直すためでもある。

もしこういう行政の新自由主義原則が、英米民度への劣等感のうらがえしで安易な再国家主義化への扇動を行おうとする碌でもない反動形成の子供っぽい叫びに逆らってでも復権されるなら、我々は世代間をふくむ自業自得こそもっとも社会内に発生する不平等を納得させやすい社会機能である真実へ、再びそのしくみをはじめに発見した印度の英知者へ反省の意を評せざるをえないだろう。
 直接的には欧米全体、及び耐久消費財の需要減衰を迎えた中国や一部ユーラシア大陸権益の中でもっとも、情報産業化後の経済的分け前を確保したのが、かくある原則をやはり継続して採択してきたごく少数の超自由主義諸国であるのを、いまなお限りある人知には疑えないのだ。
自然のぬしがそうした様に、人類はできるかぎり社会の中に多様化した生態をよびこむべきだとこの国際資本の大幅に偏った移動後の必然はだれもに実現結果で示すであろう。そのとき格差への偏見は収まり、逆にある国柄や個人、家庭への、黙々と努力をつみかさねてきた富裕な人々のわすれえない勤労の習慣へ伴う地球的な崇敬語となるであろう。