2009年12月23日

趣味の分析

だれもいないところでは誰もそれを理解しない。だから世界に理解がある、とは知的生態のあるという間接の権力であり、理解できないもの、或いはものごとを理解するべき知的背景に不足がある人物はかれが無知であることをひとでなしさで補うにすぎない。ひとでなしという言葉がひとを知的と仮定したところになりたつだけの限定語なら、理解しえない対象がある間はその人格は知的に不十分なのであり、また全人的でない。我々が真っ先にみいだすのは、有限の生涯時間の中で知性が達しえる十分さとはかれの理性が自己を満足せしめる程度である、なる分限の道理だ。良い意味での知的な貪欲さはこの理性の度合いに依存する。だから学ぶべき理由をみつける才能として、かの構想力なるものを定義できる。
 法文化をふくむ解析操作の解釈界をかたちづくる方法論は分析哲学とよばれてきた。が、この解釈界への詳細化なる理論への考究態度は、自明でないばかりかひとえに主観的である。哲学自体の翻訳や定義の鞍替えはおよそ無際限なばかりかどれも方法論の命題であり、そこに起こりうるのは言文間の分解率ばかりだ。だがこの分解率はそれ自体としても決して不動でない。
 もしこの宇宙に於ける最高の権威と雖も解釈界をこえての考究はなしえない。なぜなら冒頭の如く、理解はかれの理性のほどにより、しかもそれはいってみれば言文間差延のよりどころを自らのなしうる学習の目的観へあてはめてみたものにすぎないから。我々が全考究のもっともあとにみいだすのは、結果からするとこの学習の目的観というべき態度、いいかえれば処世術への悟りのほどとでもいうべき観点こそすべての人生内での学習の最終成果としての真実である、といういわば結論だ。なおかつ、人生の結論とはもっとも円熟した人生観であり、それは智恵の誉れを宛がわれるにふさわしい最高の学識に適切なのだろう。簡略にいえば学習のよくない人格の人生観は慮りに浅いばかりか殆どだれからもかるく笑われるか、透かして省みられないだけの漸くつまらないものだろう。面白味をみいだす能力、嗜みとは最高の円熟に達した趣味人に於いてこそ完成する。
 とすると、初手にかえって人間がなぜ学ぶか、なぜ社会も入る自然界の様々な現象や成り立ちに教えを請う又はおのれの数理能力を当て嵌めるかといえば、それはより詳細まで世界の構造や成分、力学を広くも深くも理解し、理由を自らの理性の中へ結晶させる内に世界なる非我の有様をより味わい深く念うためなのだ。ところでそういう次元には無いにひとしいが、全能の博識者はおそらくこの趣味の度合いを我々よりはるかに高く保っているだろうから、神々しい趣味観を我々よりはるかに多く有しているだろう。分解能自体を考えるに、言文の密度は多分この趣味観の社会生物版の基となるのだろう。ゆえ分析哲学の成果のすべては、結局言文の密度を以前にもまして複合化できることになる。