この社会で最も主要な命題が如何にして最大多数へ幸福を浸透させるかにあると仮定すれば、幸福の多様さはそれ自体が目的ではありえない。最高の幸福という質的功利性はなぜ社会が複数かつ無限の適所をもつべきかにも十分な注解を加える。社会が様々な個性を要請する訳はそれが協業の際にできるだけ細部を専門化したいからだ。もしこの専門さがいらないなら誰も、個性を卓越させたがる動機づけをもたないだろう。
これらは、最高の幸福なる命題が品的にしか定義できないこと、即ち組織か群れの共通にもつ目的感覚によると教える。もし社会の目的感覚を系の快適と定義すれば、カント的芸術論の快適の定義より軽くイギリス功利主義より重い意味でこの快適性、つまり会社あるいは結社のたくみさが推しても現実で到達できる最高の品的幸福なのだ。専門化自体は目的視できない。寧ろ細部の完成度を決めるのは組織相互のやりとりであり連絡や関連だといえる。だから専門化は効率の為で目的感覚や理由ではない。即ち、趣味の目でみれば結社の良さの方が理にかなう。もし最高の結社をみれば、そのしくみは最大多数に個性の適所をあたえるものだろうし、なおかつ上述の快適さを最大におしひろげたものだろう。趣味のよい社会が現実で最ものぞみやすい多様さの限度および彼らの個性を働かせるのに向いている意味とは、ここにある。そしてその現れ方は品性と云われる。