現代社会に於いて、女性への過剰教育による家庭バランスの崩壊したがって婚外児増加などの伝統逸脱行動が現れるのは、自由化に伴う自然ではある。然るにこれらの否応なく不具合を伴う家庭から育つ子孫は、いわば不安児と呼びえるだろう。如何なる最低限社会保障によっても精神的安心感を、一度壊れた家庭へ補う事はできない。そして生態への活性酸素がそう働く様に、これらの不安児は社会にとっての反作用いわば必要毒素となる事によって、却って健全の機能を強く共有認識させ平衡を回復せしめる。
所で優れた天才人は、生い立ちに不幸を背負っている場合がある。つまりこの不安児は、もしも天性や社会資本の恩恵により反社会行動に陥る事なければ、屡々凡人には為し難い昇華適性を示す。
だから、我々は自由化の方向が大部分に関しては功利的結果を与える事象に照らして、「既存倫理に許容可能な限り」少なくとも法的には、婚姻に関する逸脱行動を黙認すべきである。無論ながら不道徳の因子はどの様に些細な点についても長い目で看れば確実に淘汰の具であった。文明は行路を遊ばせるが決して退行を許さない。為らば一時の雑多な試行錯誤を通じてさえ、最も人道からして安心できる婚姻制度に自律的に則り続けた子孫だけが長らく、周囲からの尊重を以てあまねく生存できるという信を疑う根拠を持たない。