光速度可変の原理を導入すれば、現代人の宇宙解釈は閉鎖系のそれであると近似的に認識しても構わない。極めて遅い光速の元ではエントロピーの低い系の秩序が、逆に極めて速い光速の元ではエントロピーの高い系の秩序が考えられる。我々は上述の可変解釈を銀河系より大きな系の枠組みとして宇宙系と名づけられるだろう。しかし我々は太陽系の属する天の川銀河の自然が如何なる規則に基づいて建設されているかを取り敢えず研究しなければならないことは、井の中の蛙が大海を知らないと同時に井戸そのものの有り様さえ知らない蛙がいるのに喩えられる。もし仮に我々の属する宇宙系を天の川銀河をも包む質量の流れであると定めるなら、それを織り姫と彦星の永久の恋の舞台になぞらえて七夕系と呼ぶ。即ち、我々の属する宇宙の光速度が観測に矛盾が現れて来ない限り一定水準であるのはローレンツ変換式√1-(v/c)2の物体の速度vを比較的増大させる結果、その光子に抵抗する引力の中枢がどれだけの質量を持って宇宙間を移動しているかに等しく、ある閉じられた系の中では最も巨大な質量因が各銀河系および恒星系の引力の歪みによる補整誤差を大幅に超えているからである。
そしてこの質量因より大きなブラックホールの存在する系では、少なくとも確実に光速が我々の七夕系におけるよりも速い事、逆により小さな宇宙系では遅い事が予想できる。なぜなら万有法則m=Acより引斥力の全体は釣り合う筈だからだ。
にも関わらず生物量の公式E=klogD=1/2mυ02-Wによれば、mかυ02つまり質量又は光電子振動数の初期条件が高いほどに複雑な生物が栄えるであろう可能性は否定できない。従って七夕系を基準とした光速より速い現象が有り得る宇宙系においては明らかに、質量とエネルギーの等価式よりE=mc2よりc2=E/mなのでその活動質量は我々の生態系より遥かに甚大な幅広さを保つ筈である。
我々はこの推論から七夕系宇宙より巨大な宇宙系への移動を単に速さによってではなく同様に時間によって、光速に限りなく近い空間の中ではその外側の観測空間より遥かに時間が遅く進む相対論の自由に沿って時空航路を執る者が現れた暁には、彼らが何れの時代にか我々を飲み込む宇宙系からの光速より速く動力を推進させる機構の持ち主との接点を持つ事が殆ど確率の問題であり単に論理的には必然であると知りうる。そして中には我々とよく似た次元の知的生物も含まれるであろう。然るに我々より低い系の秩序、つまりそれは地球において細菌界や原核生物界との接点が相応の観察装置により可能なのに等しく、彼らには彼らの異種との接触が進化する新たな種の形成により彼らの生態様式を革新して行くのは惑星文明間におけるのに同様である。だがエントロピー増大則が恒星系の大きさに応じて生物量の範囲へ許す限り、少なくとも七夕系のどこかの銀河には恒星の大きさと化学条件としての条件偏差値に応じて異なる秩序の生態系が実在することを否定仕切れまい。よってドレイクの宇宙文明方程式から適当な変数を除去整理してN=R×fpとするなら、文明数Nは恒星生成平均速度Rと惑星型恒星率fpのどちらかを定められれば、それらの内へ生物が栄えるのは恒星系の持続する時間の問題に過ぎず過去を省みない限り一以上と考えても合理的である。もしこの値を単に生命数に還元してnとすればn=R×fp、然るに惑星型恒星率は少なくともマイナスを取り得ず、虚時間条件のない場では恒星生成平均速度がゼロ以下には成り得ないことから各銀河系を探索する内に地球外生物を発見するのは単に確率論である。
更に、万有法則m=Acと質量とエネルギーの等価式E=mc2より、エネルギー平衡則E=Ac3を導き出せる。
また七夕系宇宙が今日普通の世界を保つ間は、中枢質量因に近い銀河系ほどに等価原理によりゆっくりとした速度で、又遠い銀河系ではより速く時間が流れると考えられるからエネルギー平衡則が意味するのは最も宇宙系中枢から遠ざかった文明ほどに素早く展開し、しかし同時に小型の生態系しか不可能な宇宙構造である。ハッブルの法則はV=H0×R、従って天体後退速度Vは定点から天体迄の距離Rに対して比例して増大するなら我々はホーキングの特異点定理を時間順序保護仮説のみを原理として採用することで回避し、宇宙系の内部ほど時間は悠久であってその中枢には過去の姿を留め続ける化学反応が保存されていること、又ある程度外側には優れて膨張してはいるが互いに光路的に孤立して発展した複数の文明もが存在しうることを予想させる。この時間幅のある全体として閉じた宇宙モデルを仮に普遍宇宙モデルと名づける。こうしてビッグバンとは微視的には絶えず無限に近づきつつある量子同士の化学作用で巨視的には最大値の核融合であり宇宙の中枢では我々から見れば世界は殆ど止まっていること、ビッグクランチは少なくとも時間軸が最大限に展開した光の未だに届かない宇宙の過疎地としてしか定義できず人類の感性の範畴では想像力が及ばないことを普段の世界観にも受け入れられるだろう。