2008年8月13日

再創造仮説

人間は徐々に活動をrecreation化しつつある様に思える。嘗ては生計の為に行われて来た慣習が、後の世では余暇の娯楽とされる。経済性を強化するに当たって、直接の人為が必要な領域は益々少なくなって行く。研究せられた法則を元に自然現象の活用を覚えた人類は生産に於いて、並べて自動化を可能にして行く。若しこの方角に大凡過ちがなければ、人類は文明化のとある末には諸労働から解放されるだろう。彼らは最早生計の為にではなく、recreationそのものの為に働くだろう。此は彼らの活動が益々自己目的を深める事を意味する。人間は他の手段と成る事を要せず、単に己れが成長則の為に活動する。結果、各地の民族性は既存よりずっと個性の度を高めるだろう。
 自由主義の蔓延風儀がある時代に地球を覆ったとして、人間は少なくとも地域郷土を拠り所にしてその流れが有する均質化や一元趣味への潜在的抑圧へ最大限に抵抗するか。
 文化は少なからず彼らが共有できる最終の記憶となる。国家が今日に於ける程の堅固な囲いではなくなった暁にさえ、民情を同一化する根源は彼らに普通の先祖が辿って来た辛抱強い足跡。文化摩擦、しかし負の失態を伴いつつ、如何なる面から眺めてもこの相互参照と自己反省の繰り返しだけが以前に優って近代化された文化様式を発見せしめる方法。我々は各種偏見を様々な共同化の工夫と努力を通じて次第に取り除くべきで、国家を民情を対外国へ隠し仰せるべきではないだろう。どの様な醜い部分ですら、客観的には慈しみ哀れむに足る特徴を示す文化の生態。我々は鏡を手本とし、己の姿を出来うるだけ客観視しようと常々勉めねばなるまい。文化は内側から見れば普遍的なのに外側から見れば多少あれ特殊なら、その差延にあって人間は交易を果たす。故に内省を、従って自己規律を絶えず与え直す契機とは実に幅広くゆたかな社交。
 代表的一神教信念にとって罪の基調は内観にあると云いうる。然れど因果の網はたとえ罪の意識を彼ら程に強く持たない民情に於いても厳格な応報を行うだろう。この場所では何らかの環境誘因に依って、余りに窮屈な自己罰則は却って不適応となっている。だから、我々は一神教の尊い感情を狂信者の如くに、他方の未開とされる文化に殊更移植しなければならぬ理由を持たない。謂わば宗教とは地域文化に科せられた偏見の慣習。別の常識に基づけば、自由は彼らの信念に則り行動させる所に属するのが明らか。植民政策が大概に失策であった歴史事情は結局は人間が如何なる野蛮の風習に対してさえ、動物を扱いこなす程には冷酷であってはならない現実であった。人格は他者をまた目的とせねばならない。為らば宗教間に分別を、国家間に自律を要請するのは現代の国際交通が命ずる必然。
 聖戦を主義して他方の信教を迫害感化せしめるのに適した民情にとってさえ、貢納の節度に就いて協働を尊ぶ親切が根強い。ともすれば人間は自らの目線からしか世界を観察できないと思い勝ち。実際には多数の、非常によく似た精神が各々の信念と共に各地各風土に能う限りの自助勤労により適当している。そのどの一つが人間的でないことは無い。
 文明国を自称する浅はかな民も、如何なる生産労働からの日時の解放に鑑みてさえも他国民の生活様式を嘲笑う理由を持たない。なんとなれば彼らが最高度も見なす市民間にとっても犯罪が、悪意や錯誤が自滅したか否かを反省すれば。文化は永久に比較相対的。文明に際限がないとすれば宇宙に眼を向け、おのれの人格より遥かに勝れる理知の生活圏に想いを至すべきなのは普遍人倫に領域がなければこそだ。