2008年6月14日

次期国政の布石

民意に媚るエセ煽動家が支配的勢派となり衆愚政が現実となった今日では、「権力の中枢」を一点へ絞り込む努力が必然である。
民主主義者の名目で、迷盲の非難だけを当然の権利と考えて恥じない愚衆のもとでは、如何なる英断と雖も鋒をくじかれ挫折させられてしまう。そして全体としてその様な組織が《不信の連鎖》から生じるところの莫大な官僚機構の無駄の蓄積によって、社会主義国の発展にも遅れてしまうのは目に見えた結末であろう。

カントの云うごとく、執権者の数が少ないほどその組織の共和政へ近づく可能性は高い。なぜなら統率がsmoothだからである。
但し、この執権者が「国外」からの勢力の拮抗がなければ独裁を恣にするのも歴史の常であった。我々はだから、国家の別に加えて、己れの住まう国において到達できる限りの最善の政体を実践に向け改良し続ける義務を有する。周縁民族へ徳化を与えるのは確かに、国際間に圧倒的な善意を体制として実施できた帝国なのであった。そしてこの種の帝国を中心として人間の生態循環を組み換えていく中途にしか文明の相互参照、相互啓蒙によるより高い正義の国体へ至る道とてなかったのだ。
 専ら我々は国家の解消を要求も希望すらすべきではない。国際連合という仮設理念でさえ、一国一族の理想の元でしか充分に追求できないことを省れば。
即ち全ての戦乱を引き起こす處のものは民族間に大きな格差をつけ互いに恵み合う奉仕の精神を不可とする経済融和反応でしかない。国体は相互均衡にあたいする場合のみ一定の友情を自由にする。国家の自律とは国体に科せられた義務だ。それは民度を種とした国際間の不当な搾取に対して調整の正当化を要請し、公共福祉の拡大を主張して驕れる民族への退場命令をあまねく喧伝するに十分である。

だから、現代の日本人が最も恐るべきは多数派支配の甚だしい弊害であろう。孫子が云う様に兵卒の統制が執れなくなった集団ほど懐柔も解体もされ易い体制はなかろうからには。
『権力の象徴制』は権力中枢の少数化より更に重大な命題であることは、マスコミ認識を唯一の判断材料源とする情報弱者が為にも端倪すべからざる知恵であろう。彼等は象徴を、従って理念の虚構を通じてしか政治参画の願望を満たすことならぬ。民主主義とは現代においては虚構以上の概念を持たない。事実上、大衆支配ということは作り話であり現実味を持たない。大衆は「理念に酔える者」として断片的に理想化された執政の細部、いわば舞台カットを魅せられればそれはもう満足なのである。実際に‘CHANGE’という偶像のテレビ劇場で大衆程度の政治願望は容易に騙し仰せられるものであり、なんらかれらに実権の有り様を説明する必要はない、と言わねばならない。
 大衆にとって政治とはドラマの筋書きくらいの蓋然性があれば満足して居られる、「夢」なのだ。だから、政治とは明日にはただの劇場として執政の現実とは丸きり関係のない虚構の舞台となろう。我々はそれを受け入れるべきで衆愚政の瀑布へのrouteを少なくとも内政的には避けねばならぬ。
民主主義国という理念は飽くまでも現代向けの仮面であり、一種の装い、fashionである。我々は地方分権を「経済力の強精剤」としてこそ軽く疲労した肉体へ打ち込みながら、尚且つ前へ、自らの本来あるべき地位へと返り咲かねばならぬ。天下統一の夢は虚構としてのみ魅せられる。だから日本文明は民主主義の理念を既に遅れてしまった過去の幻想として祭り上げて神棚に仕舞うべきだ。
 我々は象徴的福祉主義という独自の道へと舵を切り返すべきだろう。そして実態に関わらず、大衆の不満を反らす目的が為にはマスコミ報道の前でだけは飽くまで一致して象徴を担ぐのが表舞台の義理である、というのも海外に放送される分を併せればこの際の劇場の民度が現代政治の水準と拝まれるのもこの上ない好都合だ。
 しかし水面下では、奈落の条理として大連立後の「貴族議員」を枠組みしているべきである。この種類による先制の道徳順位こそ、象徴劇場に歯止めをかける政務ブレーキの役目を密やかに、着実に果たす。しかしこの貴族議員の枠組みは党閥を越えなければならぬ。だからそれは参議院の成員からおのずと結成されて然るべき結社である。しかもかれらは衆議には進んで参画しないであろう。というのも政権交代とは無関係の上でかれらは貴族議員の領域を少なからぬ世襲で支配するからだ。はじめは隠密にかもしれないが、いずれはこの種類について感づく民衆側から特定の呼称が、合法の範疇で付されるであろう。彼等は象徴的福祉主義の実行には「影の内閣」として働く様な黒子であるに違いなく、その勢力が乃ち、過熱化した報道に沈着な空気で冷や水を浴びせうるのだ。