2008年8月7日

情報多核化論

「勤勉」は普遍的人倫では必ずしもない。ある国民から見れば、勤労の義務を当然と受け止める国民性が驚異でも珍奇でもあるだろう。「休まず働かねばならない」という脅迫観念がある社会では、長期休暇そのものが罪悪感を以て理解されがちですらある。だからこの民情を何らかの反作用で改善に向けない限り、この蟻の様な働き者の人倫に於いて学問の権利とかrecreationの余裕とかはなおざりにされ続ける。
 そしてもし、勤勉人倫の産み出す文化が甚だしい奇形さを含むなら、いわば労働狂としての人格群の盲点から生じる。満員電車という異常現象を看過する民族が産み出すあらゆる商材が、心のゆとりを欠くのは必然か。この文化の特徴は、無理に激しい消費を駆り立てる衝動となり、ある種の退廃を込む。最大多数の最低限の傾向に媚るが故に低俗化を免れない社会性、これが現代の勤勉人倫の欠点である。

 働かねば暮らして行けない人間は、貴族から看れば哀れむに足るこせこせしさを示すに違いない。気忙しく、けちで、品性がなく、金儲けと来れば夢中になって飛び付く様な国民性が尊ばれる場では、どの様にしても上質の品種形成は不可能となる。
 東京文化は相対化されるべきで、テレビ局を中心とした情報提供の多核化は全く異なる人倫を多数育む為には是非ともなくてはならない。情報発信の一元化がもたらす実例がここに現れている。それは否応なく極度の特殊化に繋がる。驚くべき下品の傾向を量産する勤勉さなら、何もせずにさみだれを眺めている方が、民族や仲間の名誉の為にも遥かに増しである。悪評が広まってある場の風紀改善課題が一般敷衍されるに伴って、自治的弾圧が要請されるのも自然の流れだろう。そしてこれらの弾圧の精度がなければ奇形文化の希少価値を逆説的に担い手側が認識することもない。その分、又獲得された技能の粋を伝承させる手順も忘却されてしまうだろう。