2008年11月25日

公共学校論

我々は家庭教育こそ最良にして究極の教育制度、なのだ、という真実から目を背けてはならない。公共の学校に対して理不尽な非難と益々高まる過剰な期待の声は、それが民主主義を標榜するたみによって貴族の私邸において予てから施されて来た立派な学問の程を我が子の場合に模倣したいという欲求から健置されて来たものであった歴史を、冷静に把握してから発されるべきだ。すなわち公共の学校には、最終的には主宰者自身の道徳に値する啓発効果しか望み得ない。
 もしこの大衆化と均質崇拝の世風の真っ只中に、子息の未来を深く案じる情け深くも思慮に満ちた両親の名残さえがあったなら、かれらは学校に通わせるという通俗的な様式ではなく、家庭教育制度の充実というまさしく貴族主義の理念に今一度立ち返ることだろう。少なくとも、玉石混淆の世間という否応ない荒浪に揉まれ健やかな交際の習いが掻き乱され易い身心とも不安定な思春期の間だけでも、如何なる無遠慮な環境から育った不運な人間にとってさえ親元から学校という通俗化された場所へ通わせるのは必要にして賢明な教育方針だと思わねばならない。最も優れた教授がそれぞれの個性の発達に応じた一対一の個人教授である様に、掛け換えの効かない無私の親情というものはどの子供にも伝承されて行く。
 とある地方学校の先生が曰るに「どんな子供にも必ず良いところがある」と。当に一律化された学力競争を強いる堕落した進学予備校に対する救いは、恒にこの親心の理なのだと知るなら、存在理由のない子供は存在しないだろう。