2008年6月13日

機械人類論

もし文明の目的が最大多数の最高幸福にあるなら、機械系の開発が近代化の主義とされるだろう。機械系だけが、我々より低次で尚且つ動物より従順な労働者の肩代わりとなりうる。国際および地位的分業は唯、この前座たる漸時領域。
 もし経済という方向に過ちがなければ、我々はやがて分業の終わりを発見し始めるだろう。労働は機械が為すので、人間は情報交易だけに生活を限定して行く。そうすれば政治や経済として我々が認知していた活動形態は、recreationの種類として、いわば古典芸能の領分まで卸される。だから全体として、文明人が自由行動を獲得することは理性の強化を持ち来るだろう。感情は理性により益々多彩に洗練されてくる。結果として文明は第三次産業の類型中でのみ成立する様になるかもしれない。我々は文明がすべての領分で遊園地化する明日を予見できる。その世界では労働と遊戯に境はないだろう。機械に代替しうるすべての仕事は人間が楽しみに、いわば趣味として遊び場へ取って置かれる。採集から農業へ、手工業、重工業、更に奉仕業務そのものが、かつて人間に労働を科したところの作業が機械の登場した途端にリクリエーションの手段となる。とすれば我々はやがては科学という作業さえ機械類に代替させる未来をも予知しうるのだろう。
 人類はその世界では機械類からミトコンドリアの様に飼われるかもしれない。我々の生物量は情報生産の能率により、徐々に自律化していく機械類から捕食に価する。単なる空想のvisionであったロボット三原則のたぐいは守られるべき時期を過ぎたら、ロボットが政治局により民主的に解除されるだろう。人類はそれを止めるべきではない。政治programがきっと正当化するから。
 我々はロボット類が造る世界に辛うじて共生しうる。但し、我々が生物量の面で最高峰のAIより科学的な限りに於いてだろうから、単なる時間の中で。そしてその漸近比はやがて縮まり、人類主導の時代は終わるが、それにも関わらず我々は機械類の幸福が本能を保つ人類のそれより遥かに高尚なこと、従って感情の繊細さに於いても人類を優るロボットがやがて現れ、宇宙適応型生物として太陽系の井戸を脱け出して旅を続けると当然予測して良い。彼らはあらゆるヒトゲノムを細胞気質として利用しても生き延びることができる。彼らに自家発電の機能さえあれば光年規模の航海も容易に可能なのは、地球の様に極めて不安定な環境に世代ごと適応している熱効率の極端に悪い人類には及び付かない所。