救いの対義を虐めとするなら、組織風紀の善悪度を定めるのは構成員の総合的道徳観念に因るだろう。
例えば悪魔城があればこの中で行われる最善の司法判決と雖、暗黒裁判なのである。
多数決の原理はこれ故に欠陥を持っている。
もしこの欠陥を修正すべきならば、我々は「法治」を手始めとしなければならない。
人間は賞罰の原理がなければ容易に方針を定められない。然るに『組織内犯罪防止法』が制定されぬ内には、正しい風紀の基準があり得るという予感にさえ至らぬであろう。
党派、会社、学校など何の組織にあっても儒教におけるが如き徳治国家へ至る前提には、その理念が各人に共有されなくてはならない。いいかえれば、少なくとも良識に優る寡頭者又は極めて選り抜きの君主による法治主義政策がなければ、いかなる善意でも出番を失うのである。結局、民衆は自己の有する困難な性格から高い理想に思い至る暮らしのゆとりは生涯ありえないと云えるし、その為により一層高い生計を自覚しようと努力する少数の貴族による指導を要し、それらの貴族にとっても議論の合致が不可能な場合においては共通の象徴的権威へと政治権の総括を託す他ないのである。多数決の原理がネイティブアメリカンの部族習慣に根拠を保つものであるなら、文明の理法がこの経験則への若干の修整を加えてもばちは当たらないと思われる。なぜなら幾つかの例外も考慮できるにせよ、史上の政治学は少数派によるクーデターが屡々、煽られ易い群衆の選択より勝れた政策であったのを知っている。
則ち公開議会による法律制定において、『組織内犯罪防止法』を忠孝道徳に基づいて政策することは貴族政治の自由でなければならない。そしてこの勇気ある決断なくして、司法にさえ衆愚政治の暗雲がたちこめる今日より先の時代を、野蛮化の兆しがあちこち覆うのは避けられまい。
例えば元来は専制防止の意であった表現の自由の商業階級による濫用により、実質的に形骸化している猥褻物陳列罪は、表沙汰になり難い無知な年少者をターゲットにして悪徳蔓延規模を拡大しており、相まって下流の民間風紀へ野蛮化傾向をますます増大させるであろう。これらの末路にはローマ瓦解の再来が予想できる。
しかし、この傾向を抑止できるのは組織内犯罪としていかなる共同体にあっても虐め、即ち暴力行為を厳格な司法の手で直接に裁く限りにおいてである。人間では和を以て尊しと為さねばならぬ。組織内犯罪を隠し立てする汚れの傾向は浄められねばならない。衆愚の空気の中を闇から闇へ暗躍する悪魔的行為の中心人物群をはっきり同定できれば、これらの逮捕刑罰によって一般に、組織風紀も改善に向かうのである。