2008年6月17日

鋳型としての大衆文化

人間を国家鋳型に填めること、これが人間を奇形にする。

 教育という概念は卑しい。大人は常に、選良された子供より劣る生き物で、もし次の世代に抑圧を与えなければならないなら寧ろ迫害されるべきだ。この年寄りは老い先みじかく、どうせこの世に残された時間は少ない。だから啓発だけが教育の本来の姿であり、後者を口にしたのが孟子ならその道徳級は亜聖に過ぎないし、前者を方針にした孔子の足下に及ばない。子供には大人の時代の大部分の知識が無駄なので、教育負担はどんどんと軽減しなければならない。大人より優れた品性をより軽快な育ちで実現することが本当に子供のために啓発を待つということだ。彼らは必要ならば親から何事かを学ぶだろうし、もし学ぶ必要がなければ教える理由もない。誰が江戸の卑しい町人から悪徳を教育される理由があったか。それは現代の酷い中産階級文化、低俗な衆報に連動した漫画とかアニメとか気違い染みた妄想の産物に夢中になって騒ぐ浮世の俗物の慰み物を、後世に悪例として以外にみせる理由をなんら持たないのに等しい。
 そんな中の下に位置づけられる町人文化というものを教育される世代が万が一あるのなら、奇形の甚だしさは恐らくまともに生き長らえることさえできず、偶像崇拝に堕ちた最後には信仰深い敬虔な聖戦に絶滅されるか、さもなければかろうじて奴隷にされるのが落ち着くところである。事実上、間接的にこの兆候がないではなく、毎日メディアから侮蔑を買う秋葉原の腐りきったみにくいオタク連中がみずから招いた悪評の為に身を滅ぼすこと、外国人がcoolという厭味混じりに恰かも珍奇な深海魚を吐き気を抑えおさえ腹の底で冷笑して観察できる有り様だ。この連中は恐らく50年も、乃ち奴ら自身の死滅した先には一部の保存された奇形種以外は全員が地表から消え去るだろう。故にその気違い染みた作品を買い占めて後生の笑い物にしようとする、性格の優れた白人投資家が跡を絶たない、ともあれかれらとて悪趣味には日本の評判を落とすという隠れた効用しかないことを先覚しないではなかった。なぜならこの鼻が曲がるほど臭い退行的悪趣味の集積は、かれらが如何に現実に適合しないか、また如何にその妄想の内容が品性に欠けるかを万人に知らせることで天下の悪例をあまねく広め、連中ときたらいつしかゲットーに幽閉された病人として発狂の烙印を捺されても反論する理性とてなく、最後までidol群という蛆虫を、つまり使い捨てられた情報社会の滓へなんにでもかまわずきたならしい獣欲を投影したその残飯を、喰らって蠢くのだろう。
 分解者、なんとも立派な名前だ。立派過ぎる。この奇形種を大量に抱えてしまっているかの日本が良心は、奴ら汚いオタクを逆に偶像として利用することを躊躇わない。
 この奇形種はいわば現実から遊離した変態生物なのであり、その点で、東京というスラム水槽にできうる限り狭く狭く厳重に閉じ込め、日々の発狂を外側から観察して常識社会の反面教育に足ることこの上なき好都合であるのは下衆の吐き溜めを敢えて排除しないのと同じ自由淘汰の福利に基づく。韓国は正にこの正反対の道を進むことで変態を拡散させてしまう。しかしオタクの正反対の行動を取ればこの世では功を成しうるという未来を予知できるだけの理性があれば、かれらを法律の範囲内でなるほど構わず放置しておき、代わりに共有された社会的蔑視を与え、しかも連中の地域飛散を抑えられるだけ抑えながら秋葉原という腐乱した菜の花の枝先へ誘っておくのは殖え過ぎた油虫が共食いを始めるのと同じ異常醜態を、おのが悪徳の業の犠牲として道徳法定に於いて決算させるが為には必須の判定である。この奇形種を厳格にカテゴライズすればこそ、我々は全体として審美生態の最下位を切り捨て、民族の品種改良を推進できるのであろう。ともなく我々は自然に委せれば良い。自業自得とは生命体の道理である、つねに有力な性格は幾分なりとも道徳的でもある。
 燕の巣づくりは軒先を選ぶこと、古人の諺にある通り。危うきに近寄る雛は親の品性にも原因があったこと、我々は孟母が甍を替えた訳をただの都合ではない、と知るべきだ。