2008年11月27日

大学制度論

今の日本において確立されざる単科大学(college)と総合大学(University)との違いは、両者が分業と協業なる全く形質の異なる適格を養成する以上は、いずれ大学令的にも整備され直される方が望ましい。しかし注意深くならねばならないが、この際に単科大学の価値を総合大学以下に置くのは過ちだということである。単位互換と施設提携により、それは部分と全体とを緻密に構成しなくてはならない。
 イギリスでの学寮制が、いわば大学内のチームを造る様なしくみは一定の参考に足る。現況日本の総合大学は屡々離れた地点に校舎を持つが、それを更に拡大して校舎毎の自治教育方針を認めるのがイギリス式。
 他方、アメリカは科ごとに特化した高度な集積を完全に独立させる傾向がある。すなわち広い国土では分散しすぎるよりは一定の場所に一定の形質を集めた方が効率を達する。日本はこの両者から利点を学び取りみずからの欠点を克服せねばならない。
 単科大学というものの本質的意義は「集積」にあり、総合大学のそれは「校風」にあるとするなら、我々は省略されて行く若年人員の中で既存の大学間の統廃合を通じて、いくつかの有名大学傘下の高度集積という既存校舎の利用方法を考えついてよい。もし自然に委せると、すでにある程度のまとまりをみせている入試偏差値ごとの連帯間提携合併と、有名大学間の競争激化、そして弱小の大学吸収と校舎買収が起きる。自主的にまとまることだけに依存していると何より、単科大学の専門性がなおざりにされ易くなってしまう。これが日本における大学秩序再編の最大の課題点である。たとえば明治以来の歴史を持つ幾つかの単科大学では長い歴史の中で蓄積された教習方法論が不文律化されているのは普通である。そして生徒の自主性に委せるだけの総合大学には、こういう一定の学生‐教員間の同胞意識が出自境遇のさまざまな違いから確立されて行かない様だ。いいかえれば、今日程度の総合大学が抱える複数の深刻な問題は、その大規模化に伴う師弟感覚の希薄に由来するのだったろう。単科大学独特の個性を十分に将来へ託しながらそれらの再編を謀る戦略として、大学令上で総合大学自体との住み分けを計るのは思慮の結果だと説明される。
 仮に大学院が余分研究員問題からも分離省力化した採算の必要に駆られ自立して行く先々にさえ、要領よくまとまった専攻学部組織としての単科大学の価値はユニバーシティのそれに優るとも劣らない。この為に、職業専門学校の自発的延長上にあるものとしての単科大学制度は、中身の薄い教養人に留まらぬ「専門家」の育成に特化した特徴ある日本型教育として、独自にカレッジの名称を冠されてよい。
 然るにイギリスにおいて大学名称を誇るよりも如何ともし難く愛校心の源となっているのはleg、乃ち法を供にする所の校舎同輩ということだ。如何なるカレッジに属してきたかで人間自体の育ち方は微妙な内容の違いを伴う。他方、日本の大学制度に於て相当独特なのは校風を受け持つ名義としてのみ、単科総合とわず大学なる概念が有効に働いているという事情である。これはそれぞれの創始が時代の混沌期にあった場合、志たる初期設定値に最大のばらつきがあった複雑系方程式乃至バタフライ効果へ帰せる。そして単一の個性が最も恐るべき民主主義の殃であるからには、また世界に向けて内心そういう学校法人の適当な分散を文化上の成果とまで考えても間違いにはされないだろう。