2008年9月17日

数学と自然の関係

ある人へ数学的な着想を与えられるのは自然である。若しこの人を閉じられた光の入らない部屋へどれだけ置いても、感覚に訴えてくる無数の自然現象という規則立った世界がなければ如何にしても、新しいideaを閃くことはない。ゆえに、この数学的認識の拡張としての天文学も、よき自然に遊んだ経験がなければ自発的に伸びていけないだろう。ある程度の平和がなければ学問は発達しないが、同時にこの唯一の源泉は自然界の豊富な形相にある。
 そして人間は単なる人工化された環境下ではそれより他に新たな世界を発見できないのである。神の最も明らかに現れた姿は自然現象であり、我々はここから真摯に学ぶより以外に有効な自由を持たない。自然は世界を支配する秩序であり法則である。我々には思考を通じてこの無際限な英知の宝庫からの習い事をするのが精一杯だろう。
 自然が美しいということ自体、そこには何らかの神の意図が働いているのであり、従って対象は何らかの合目的な秩序を保っていると言える。こうして特定の自然現象からの抽出として、例えばニュートンが林檎の落下に見つけた様に、宇宙の根本にある神の計画を知ることが我々自身が正しく道を処して行くのには絶対に必要なつとめだと思える。ソクラテスの考えた様に、我々はあまりに何も知らない。我々は自らが何処から来て何処へ去るべきか知らない。しかしその解き方は自然という問いとして目の前に広がっている。自然から学ぶべき。
 ある山奥にひっそりとした神社で静かに流れる清水のどの瞬間にも働いている宇宙の法則は明らかに、何らかの原理を秘めている。しかし我々にそれが知り得ないのではない。静かに物思いに耽ること、先人の思考法を道具として真理を探ることで少なくとも絶えず部分的には源流を辿りうるのだから。
 宇宙の部分としての自然界にはその特有の調和状態があり、我々は数学という秩序を方便として混沌に隠されている神秘を徐々に解読して行ける。そして我々は神の計画から学ぶほど、我々自身がその内にあって如何に処するべきかを悟ることになるだろう。物ありて後に倫あり、と福澤が云った如く、道徳とは少なくとも人間的な法則。人の倫は物理を裏切らない。