全人類は比較的な障害者である。完成された十全健康というものは何らかの環境抵抗に対する特定の適性としてしか定義されないのであって、全ての生物が進化途上にあるという某学者のお気楽な空想に学問の序に関する紳士協定の観点から多少の配慮を払っても、帯患健康の変異についてしか健全の水準は仮定しようもない。
よって我々は障害者という前現代の差別用語を捨てて、代わりに人間すべてを条件者と呼ぶのが適当であると思われる。結局、遺伝条件は必ず人類に於ても多様性を乱費し、それらの合目的観を環境適性という特定形質へと緩やかに傾斜する配偶の坂道に向けて転がすというのが自然のみならぬ運命選択論側の知見である。則ち全人類は初期条件がばらばらでしかも極めて様々なルールの競戯に遊ぶオリンピック選手に喩えられる。障害はルールの側にあって、個人にはない。故にルールを変えればゲームの順位も当然変わる。どれが障害かは誰にも判定できない。
生まれながらの障害者はありえない。環境が克服すべきフィールドなら、常にプレイヤーが新たに得る習性は生活目的であって、その初期条件は個性の範囲に属する。そして個性には人権の本質的等価が紛れない。故に障害者という差別用語を使って平気で少数派を迫害する哀れな感情知能の持ち主にも性格にまつわる適応障害はある。