国民性は可変的。民族は語族と大部分重なるとして、どの民族精神も外来文化の影響外に有り得ない。若し何らかの奇遇で、常にこの種の共同体だけが進化史の生きた化石なのだが、僻地に免れた共同体が残るならという特殊条件を除いて何時如何なる場合でも民族は混淆のさなかだろう。Nationalismという概念は故に、偏見の名義。それが民族間に初めて、全く新たな性格を仮設する。共同体の場合分けが逆説的に国民性の基調を用いる。語族が民族に重なる部分とは、結果としては生活感情の共同体が詩歌を通じて共有される範囲について。だから言葉の通じない異民族間に橋を渡し架けるのは主には詩歌である。ともすれば特徴づけられる生活様式の文脈が、その文学には主旋律として与えられているからだ。
今日我々がliteratureとして認識する概念は、実際には記録された詩歌様式に関する感覚論。だから文学は想像力について、現実の詩歌よりも後から着いて行く。語られうる言葉だけが記されて行く。国民性を改造するのは生活様式の移行そのもの。伴う情感の推移が、必然に語族や、その共同体生活の枠組みをも移り変わらせて行く。日常に交わされる詩歌とは、会話と呼ばれ、この審美感覚の中核が、やがて国民性を組み換えてしまう。
文学が何事かを変えられると信じられていた時代があった。然しそれが実存主義者を取り囲む雰囲気幻想というのでもなければ、会話よりも先に詩歌の記述がなければならないことになる。国民性を先導する詩歌を口語に即した形式で記述しなければならないだろう。
小説が優先される場所では時事よりも文学が進む事は有り得ない。何故なら語られた小説とは既に宗教説に過ぎない。