肉体美の中庸性は精神美の完全さを期するのに不可欠な要件となる。この為に人類に於ていつにあっても、肉体が完成されることはあり得ない。その特性は常に未完成さの延長としてのみ、生態における可塑性の増大としてのみ見出せる。
我々は少なくとも我々自身の審美性を学習行動に対する知能行動の割合いの高さとして集積しつつある如くであるらしい。これは結局のところ、物分かりの良さという特定の遺伝形質を最も望ましい審美性として絶えず配偶子へ要求することにつながるだろう。つまり最小の試行錯誤学習と最大の知能行動を目的の為に自律して行使できる様に導き出された種類を、望ましい形態として多少あれ認識する。その結果は社会の複雑さに対する適切な進路の選択を必然の判断に求める様な自律適性の選良に至れる、これは我々にとっては知性という概念をおおよそ従来の用法に関して保存して来た理由が単なる状況判断能力への僭称ではないと覚える所以である。
いいかえれば精神美を最も原型に近しい質として輝き出だす特徴とは我々自身の知性である。少なからず感情は知性の過剰を倫理的折中と矛盾しない様に抑えて表す手法として、いわば礼儀としてのみの社交的特定形質を意味するのであって究極では、その源泉は時代側の標準に叶うものとしての適切。例えば極冷たい湧き清水もこの硬度が飲料に偶々合わねば感情の対象として客体的なままである。しかし知性自体は清水が既存の人間趣味と矛盾しないかを考慮せずに純粋な水質の良さをのみ問い続けて行く。ならば変わるべきは人間の肉体の特性の側であって精神にはない。知性は精神美を最も原型にまで留める特徴なのは明らかなことと言える、なぜならそれは社会活動という時代条件に依存するものではないからだ。単なる感情の敏捷にしか適性のない種類の大部分は、実社会では精神側の可塑性の低さから、或いはその過剰な情緒の不安定さによって、素早く若しくは単純な行動型にまつわり一定の獲得形質を殆どゆっくりと世代毎にくりかえすのが通常の有り様である。しかし郷原徳賊とか環境収容力戦略に対する内的増加率戦略、つまりKに対するr戦略とかは精神性能の高度化には不適当であり、この為に知性を育む余裕が環境側に求めにくい場所柄では、例しには複数の民族の抗争が絶えないとかそもそも土地が貧弱で十分な生産が確保できないとか凡そ如何なる観点からしてすら知的活動の追求可能性は高くならない。そこでは文化的感化という強制的手段に応じてしか余裕はあり得ないのであって、屡々見受けられる様に、豪遊を愛するという自浄的特性が育ちのあしきから習性化された族について決して継続した思索の連綿は不可能に見える。それは絵本の中のキリギリスがアリをあざ笑うのと同じ事だ。
我々は持続的信用創造の最も端的な担保として、国産知識人の質量を挙げて良い。これは科学研究を嗜む人の最も直接に多彩な銘柄が如何なる方向に於ても進歩へ、状況改良へ有利である事情に照らせる。よって、肉体美を合目的として体系づける社会は進化の項目にとっては大概、過ちである。具体的には運動競技の様な少なくとも創造力を遊び、recreationにまで格下げされかつては主流であった規則で閉じた零落体系では永久に、精神美を革新へ至らせるわけにはいかない。フェンシングを遊ぶ人はもはや剣道が能率的殺害の手段であった時代を知らない。このゆえに我々の為すいかなる社会活動も将来に渡っては時代遅れになって、暇潰しの方法として以外には保存されないものだ。例えば大名行列や凱旋歌が儀式以外には内容を無くす如くに。
即ち、人類一般を特徴づける最善の種類は知性を儀式という時代標準の行動型からできる限り遊離し続ける慣習が完成されたものの謂われとなるだろう。これは結局、文化の可塑化が、多分に知性以外の特性に対する多様さが保証された場所についての現実味であり、従って有名無実な芸能人が偶像として巾を効かせる限りの現代社会という肉体礼賛の地柄ではありえない。人間性は精神美を肉体の表象を通じて知性へ集中することで漸く栄えるものゆえ。