2008年9月8日

情報文明論

情報文明になしあたうのは知覚速度の増大。結果、その範囲は人間にとって速さの為に好適な場所となるだろう。情報文明が用いる大きな成果とは文化通路の迅速な行き来に応じて、旧来より素早く作業を行いうる様になることにある。原始時代には百年以上必要な荒々しい夜空の滲みの確認が情報時代では超新星の知識により数秒でできる。科学の普及はいかなる個人へも無数の発見をもたらす。それは人間にも別の適応課題を与える。乃ち、以前にもまさって器用な活動の余地を造り出すだろう。拒否反応より先に、それは道具を使う本能をもつ者にとっては来たるべきことか。
 ある人には殆ど神業に思える作業が別の人には朝飯前と云えるだけ、人間の作業能率には様々な偏差が現れる。情報技術がその後押しをする為の道具な限り、用不用の法則が人間性について改革を申し立てても不思議はない。古今の地上でヒトしか複合した道具を使わない。情報をそう使うのは人類自身のみだろう。勿論、それらの獲得形質は単に世代にとっての精々、性特徴を示す役に立つに過ぎまい。遺伝されるのは従来の性差における遺伝形質、いいかえれば天性に他ならない。
 ともあれば情報文明場が人間に対して行うのは、知覚速さに適う天性への生存可能性の増大なのである。知覚速度は一般に知能指数の主な意味とも考えられる。直感で理解しうることを我々は悟りと呼び、大変な試行錯誤を以て学習しなければならない場合を考えと呼ぶ。なら情報化とは結局、人間へ知能適格の有利さを淘汰する様な新しい場所の制作なのだろう。それは直感の優位を思考に対して確立するだろう。
 かつて世界が暴力、後に法による野望の場所であった様に、恐らく未来の文化は情報人の知恵と工夫の場所となるだろう。この推移を文明化と呼ぶのは凡そ正当。今日ではいままで主要な仕事であった部族間の抗争や獲物の狩猟、或いは絶えざる不可解たる自然現象の利用や集団で協力した目的の達成など殆どの産業から抽き出される典型的な行動型が単に、象徴の役割を果たす為にだけ遊ばれる運動競技となる。となれば我々の全体とは社会活動の遊戯化を通じて知能適性を益々増強させるべく営む、特定の進化の流れなのだろう。人類が遊戯人と云われるのもあながち彼らの幼型的特徴にのみ帰せる理由ではなかったろう、それは既存回路の合理化に伴う回避行動の客観視に関する必然と云える。さもなくば人間は永久に同じ人生を繰り返すから進歩を実感できない。
 そして明日の時点では我々の子孫が今日よりはるかな速さを以て情報交易する日常を現実とするに違いない。その中には生態にとって確実に審美的な、つまり以前のどれよりよい人間関係も含まれることになる。なぜなら情報化された能率よい生活にとっても文化的に獲得して来たどの場面ですら容易に再現できるだろうから。すると豊かさに関する限り、情報文明はこの知的天性に恵まれた個人への、最適な場所を造り出す潮流として人類史の新しい局面を開くのだろう。その恩恵に人類自身は彼らのいずれよりも知能に優れた個性を多数養えるだろう。
 更にもし彼らの手が工学に十分なだけ器用ならば、機械は洗練され、産業は統治され、我々の生活空間の多くの場面は昔から比べればずっと快適になる。だがそれとて最も知的場を世界中に敷延迄はしないし、実際の集積回路が高度な人為の注力により初めて可能な如く世界史にとっては、珍しい新種を揺りかごへ導く方便と思える。その様な情報人にとっても、世界は依然として解決すべき無数の不可解な自然現象に満ちているから。やがて万能の科学者にあっても電子の抵抗が光子に対するより強いなら彼らのいかなる知覚も宇宙自体の混沌より速く働くことがない。よって、精神は希有な事象ではあるが必ずしも宇宙の目的ではなくてその特徴的な条件調整の度合いなのである。人類の目に映る全ても精神についての真実ではあり、例に採れば色弱や絶対音感における様なそれを支える肉体条件が代われば不変とはならない。この為に遺伝形質を配偶子の様々に任意な組み合わせから大幅に合目的化された改良型人類にとってするなら、我々が感覚基盤とする地球環境も一つの過渡に他なるまい。無論、情報文明はこの為には段階であれ当為そのものではあるまい。
 以上からしても精神の多岐を実現する為にも情報交換の合理化は極めて理に叶うことであると思える。その抑制する意味は進歩にとっては殆どなく、旧態を守る一部分の取りこぼしを除いては文化史上の小規模な反乱として以外には、まるで起こり得ない場合となるだろう。