2008年9月9日

勘の定義

我々は記号が意味しようとする所を文化的勘を通してしか捉えていない。記号は物理現象としてなら画像でしかないのだから。数学にできるのは直観へ記号順列または幾何図形それらの組み合わせについて合理化を図ることだけだ。十進法や論理学を経由しない文明にとって、人類数学の命ずるいかなる直観の範疇も仮説を免れないだろう。
 我々は我々に可能な合理性を建設することしかできない。もしそれ以上に合理的な枠組みが欲しくば、我々より偉大な知能を持つ生命体に待つべきだ。しかし文化的勘を分かち合う精度については、言い換えれば文学趣味の解釈議論については少なからず、理解にまつわる一定の仲間を築ける。彼らは学派ともされている。仮説ではなく解釈を、真理というより趣きを哲学の片側として受け入れるなら、どの文面も小説や詩歌の如く自由な娯楽の便宜に興するであろう。感覚や情緒の議論には論理ではなくて直感が、知識というより感情が主要な役割を果たす。ならばその正誤でなく調度が良さの対象になる。記号が意味しようとする所を単に話すには科学があれば十分だが、その内容を成るだけ巧く伝える為には必ずや文学が要ると云える。是非と別に口下手より雄弁な論客の煽動はたしかに衆愚を動かし易い、この故に古人は詭弁を戒めた。科学にとってすれば文学は不可分の手段であり、文学にとって科学は不可欠な手本となる。文学を為さねば形式を欠き、科学を習わねば内容が不備となる。
 とすると文化的な勘とは理解の海という一般の哲学度なのである。そしてこれらの書式や或いは口舌が意味しようとしている何事かを、解釈議論できるのに充実した場所を造り出すのはその母語集合に於ける、悟りの深さだと言える。勘の定義は悟り方。我々はよってどの様な文章についても、又如何なる演説についても批判的な立場へ遵うことが唯一の賢明な態度、という他により素晴らしい理性の職分を現実に持ち得まい。理解の海の難破に際して不変な立場を以て啓蒙主義を自らへ任じるべき。こういう人格の信頼性についての哲学こそ、学問を殆ど迷いなく進めるには誰しも必要な姿勢なのである。この為に、自ら信じない情報を憶え込むこと、即ち暗記とは真意の面目に対しては冒涜に値する行いである。そしてこれらの不勉強の烙印は寧ろ天性の学者にとってすればいずれ名誉の称号だろう。知らないを知らないと言う事は更なる理解の為には確定根拠となる。この無知の証明はただ暗記された知識よりも価値が高いと言える。
 理性の探究は理解の海を見渡す為に一定不動の視座を確立する所に在る。この灯台からはどの船の教養と呼ばれる積み荷の量も、勘という悟りの光を照らせば一目瞭然。