個人主義が民主政段階の目的なのではない。寧ろ一層の協力主義が個々人に自制されるのがその終極の形態になるだろう。
あらゆる集団競技でかくある如くに、個性を最大限に発揮させるのには互譲の精神、いわゆる「譲り合い」の気分が仲間に共有されて居なくてはならぬ。ある天才の個人技を美しく用いるには周りがそれを活かすため組織的に最適化されていなくてはならない。
あうんの呼吸とか気合いという究極言語化なしえない空気が、集団のより合理的な一致協力のためにはまわりくどい意志伝達そのものより重要なのは、論理より感情を優先して反射を連鎖するという医学的観察に基づいても猶、合目的である。
非常に質の高い協力とは脊髄反応を通じて殆ど習性化された「技」が各自条件反射の同時連鎖として、仲間内へ型になって共有されている証拠となる。火事場で人々が必死になった時に自動的にバケツリレーができるのはこの作用の原型であり、如何なる社会活動にもこの原理は方法論次第に応用可能なのである。
優れた個性が活きるのはあたかも組体操の様に、この協力の体制が同じ目的意識の為に一心となる場所に於てである。最も体重の軽く運動神経の良い個人を最高度の芸術的に舞わせるには、数多くの力持ちがかれの最も登り易い山を己れの鍛えあげた両手で長らく支え続けられなければならない。もし一員さえも手を抜けばその地盤は簡単に崩れるのだ。
個性のない体制というものはそもそも有り得ない。如何なる人間も機械でなく、生物である限り何らかの偏差を伴って生まれ育つ。
だが《個性を抑圧する体制》はあり得る。この体制では趣味観、いわば『志』が共有されていないが為に、夫々自由の持ち場を同じ目的の為に最適化しきれない。従って体制は最も低く最も愚かな指導を誰しもに我慢を強いる中で意に反して、無理に担がせるしかないのだ。この失敗した体制の原因は、『志』の高みが見られない事に帰せるであろう。
逆にいえば最も高い志の見られる場所ではあまねくこの協力体制への適合の努力が見られる。我々は新しく特殊な個性が要請される場所ではその前提に、偉大な志を立てた男らしく勇ましい人物が居たのを知る。地柄、或いは校風だとか企業風土とはこの言い換えである。
如何なる人間も見下されて生きるのに忍びない。彼は生まれもった自尊心により、少なくとも他人と対等に立つには死を厭うまい。主人の使いを果たせなかった丁稚が首を吊った話は、人間が如何なる身分にあっても自尊心を失えば生きる意味がない事を指し示している。
凡そ人間を他の哺乳類一切から隔てるのは、この「自尊心」の有無に由る。そしてたとえ同時代で犯罪や叛乱とみなされる反社会行動にさえ仔細に分析すれば、解消しきれなかった不条理に抑圧され昇華に向かっては歪まされた志の発露が視られるだろう。すべて善悪を捨てて人間を何らかの目的に駆り立てて止まぬものとはこの種の理屈を超えた『志』なのである。我々はいうにやまれぬ熱情に駈られた幕末の志士へ自分を省る遑を与えなかった原動力が維新の志という武士間の無言の協力心であったのを憶えている。この特別な変化の引き金を直接に引いたのは、永い大平の世にあっても侍の内へ滅びずに集積され続けて来た、ほぼ民族の天性となっていた忠義という獲得習性であった。
いつ如何なる時代にどの地点にあっても人間へ最善の判断の為には悔いを留めない理念とは正義感である。若しくは知恵者が常にこういう手に負えない頑固者を出し抜き、狡猾にも智謀へと利用するであろう。しかし民族は他の民族が為に民族の地位に就きうることを鑑みれば私の曇りなき最善の行動はどの観点からさえ、あまねく共感を得るのに十分である。ただ一人、救世主が現れた世界では偉大な倫理的革新が起こるのを防ぎ止めるのは不可能である。曰く、協力主義を民族の最善の判断力と一致させるのは全人間の魂を救う大志なのである。
もしあたうかぎり最高の大志が認識された人間にあっては、どの貧窮や困難も進んで挑むべき戦いとなるであろう。かれには幸せは欺瞞である。いずれ仮の姿である人に安住できる土地はこの世の範囲では誰にも見つけ得まい。狡賢い個人がかれの猪突盲信を嘲笑うとて、それが一途建設せんとし実践する人間性の共和国はなんびとも目下に見下し得ぬ国家をかたち造る。
だから、nationalityが民主政の上で団結するのには是非とも高志高徳の士が必須となろう。煽動屋が政治劇場を国民をからかう詭弁のcomedyに低落させようとしたところで、力強い雄々しさを有した性格者は必ずや彼らの偽善を暴くであろう。そして民衆が政の上で感服するのはいつでも単なる暮らしの安楽などではない。思うに徳川三百年の治世を実現した史的快挙は只の穏健趣味などではない。然るに家康の猛き高徳がもののふを率いる威厳を以て民衆の自発的協力を仰いだのである。主君の名を記した札をさえ踏めばその武士の魂は汚れると感じた民は現代の垂れきった均質衆愚とまるきり対照的に、政略の故にではなく圧倒的人格性の故におのずから望んで権力へ敬服した。それが世論に一喜一憂する女々しき権力者の批判にさえ値せぬ古人の道であったことは二流の経済に甘んじ先祖の功徳におぶさり続け革新を恐るかつては立派であった民族の退化、もし彼らが取るに足らない齢の幼児でないのなら情けなき恥辱であるのだ。
自分の命を狙った仇討ちの少年に勇気ある切腹を許した魂の高潔は、同国の如何なる狭く縮こまった土地へさえも匹夫どもの絶えざる反省をいざなったであろう。そして民主政がかたじけなくも最高に啓発された人間を生じさせるのならば、この様な威厳を保つ主君に忠誠を誓う準備に民族から細心を払って勇者を洗い出す役に立つに過ぎないであろう。