2008年6月22日

哲学論

今日、社会科学と称されている分野の蓋然性の高さはそれらにscienceという知識の呼称を与える事を不合理にする、結局この慣習が人間に科学不信を与える。社会科学での見解は生物学以上に可変的で、異説が乱立もして居り、更には分野の細分化には限りがなくそれらの積分値幅さえ見出すのは困難であって、インテグラル記号を社会学という統一様式に整えるのが辛うじてで、それらの種々研究傾向に知識の保証を仮説の範畴では付与するに躇う理由とてない。
 哲学は少なくとも日本語の形式では文面的に哲る学または学を哲す等であり、実用的にはそれらの研究性行を科学的真の内容に落とし込むのは後生。だから大学の中では恒に哲学は学問史であり続けて行く。哲学部の教授が知識の伝達に関して可能なら、学問史学という事になる。哲学としての学問は学問方針自体の研究。その意味で全潮流転回規模の発見は哲学体系の更新。だから学問を習う、という意味で現代の初頭私学に於いても哲学の伝達でありうる。それらの学習塾性が知識の修得に関する特定の能率を伝授できるなら、学問史学についての実践場であるという事。
 もし哲学部という特定の門所を設けるならそれらの教育ないし啓発体系を建築した学者の総意に基づく。故に哲学とは全学問の基本である。理論は実践術の集積が特殊の形式を効率化した時に名付けうる範畴の謂い故。