2008年6月7日

芸術の趣味について

道徳的でない芸術は単に品がないということだ。肩書きが一代限りのものであればこそ、後生の目には卑しい芸の担い手が、過去にはあたかも仰がれていたことも理解されよう。それは野蛮人の目は磨かれていないからだ。品のない芸術家が最もはやく流行から落ちこぼれていく理由も同じである。当世の一般社会より趣味が劣る芸術など省みる価値は皆無だ。人はミケランジェロが遥かに野卑だったギリシアの古代装飾を勘違いして、いたずらにまねた裸像を人前に飾ったことに失笑する。芸術は権威によってではなく、各自の趣味によって批評される。さもなければ文化は永久に古代の野卑な状態から洗練されはしまい。
 また単に新しいものだから趣味が良いとは当然言えない。道徳的高尚を達し得た古代文化の品々は屡々、現代人の全域を優るだろう。要は品を語るための美術。だから教師より生まれつき優れた感覚の生徒にはいかなる啓発も無意味だし、万が一もともと鈍感であるならその感性を飽くまで強調する結末に至るだけだ。美術とされる時間がほかの芸術活動、たとえば音楽や体育競技と同じ様に趣味的でなければならないのはこのためである、と私は思う。美術教育という事が無理であるかぎりそれは互いのかけがえない天性を慈しむ様にしつらえられたゆとりの時間、いわば息抜きの教養に他ならないだろう。それ以上の美術の教養という事がありうる、という言説は古今偉人の啓蒙を待つばかりだ。福澤が趣味芸術について、「自然に憶えるもので、特に教育を施す必要は認めない」と云ったのには先見の明がある。しかし子供のためにも心身の息抜きを奪う事は却って害になるだろう。副芸術としての演劇を含む芸術活動は、たとえ先例がのりこえるべき凡例にしかならずとも風紀健全のためには常に、学校内の一角を占めているべきだと私は思う。