有害図書や猥褻物流通の共通項は自由の反面浸透であって、当然、政府検閲の全くありえない場所では下方修正は単に民間自浄に期待するしかないのだが、かれらは自らの私利を追求する性格を免れないので、未成年を含む国民全員へ悪影響を与える商品を流通させることを行政指導が入らない限りは決して辞めない。そしてどの家庭でも子供を市場経済の中である程度の小遣いを与えながら放置する限り、それらの品格に致命的な悪影響を与える商品、いわば悪徳商品を子女が自由選択して消費する傾向を排除し尽すこともできない。家庭でそうなら、一体どうして地域、乃至社会では違うだろうか。
もし運よく親御が祐徳であって、極めて厳しく子女の消費行為や情報規制を行うならば、この成果として我々は「無垢なエミール」を少なくともその子が通学している場合未成年者教育機関の平均民度に応じて、ではあるが成長させる。しかしこの若者こそ我々が求めるべき情報社会の理想像であるだろうか。
結局、自由主義社会への適格とは情報選択能力を高めることに帰着しうるのではなかったか。
これらの子息が我々が経験して来たいかなる歴史とも違う成長を遂げるのは明らかであり、どの個性もエミール型の隔離教育に遇しない限りは未知の人格を生じる他ないものだ。
現実的には限界があって決して完全には不可能な事だが、少年少女は内容を批判的に消化し得たかどうかで、益々性格として二極化される。これらの悪徳商品はみな、いわゆる環境抵抗を与える。これらの影響を何らかの作戦で破棄できない個性については、今までに類を見ないあしき性質が当然ながら現れてくるであろう。その限界は行政指導が市民団体の圧力を差し引いて最低限度として国民性へ確保なしえた品性であるだろう。故に、都会ずれしているか注意不足の愚か者がその長を構える国にあっては、未成年が有害図書により多く触れる事態は回避できず、悪徳の下限は史上よりずっと低く更新されてくる。
又それに加えてあらゆる天の祝福によって、あるいは両親の思いやり深い成長環境への配慮によって、暴露を免れなかった分の飛散した悪趣味を何とか消化できた子女にあっては、寧ろ情報文明の善なる側面はいかなる時代よりも人間性を尊敬すべきものへと導く。彼女らは貴族貴婦人に値する品格を様々な情報機能の恩恵によって、以前のどの文化段階にも増して身に着ける機会を得る。
とすれば、全体としては行政指導の検疫能力の範囲に限って、国民の最低限度品性は保たれ得るのだろう。
市民が私の利潤を欲することに性急で将来の予想を諮るどんな余裕も持たないだけ惨めで卑俗なら、国民性そのものが軽蔑すべき商品傾向によって悪趣味の典型を示す。逆に一般市民の中に良識を保つ発言力と団結力の強い侠義の人が多いほど、その国民性全域の平均的な趣味は世界中から見渡しても褒らむべき優秀さを示すことだろう。