学歴と学力の間に違いを見い出せない国民度、これが日本人の弱点となる。科学の発祥を創始者に遡るなら、それは紛れなく一人の学者だった。彼は学ぶ者であり、教えられた者ではなかった。開拓者に手本はない。
科挙の弊害が著しく、日本人の在野研究の欠落度に迄なってしまっている古代に在れば、民間に科学の慣習が弱いということは遅かれ早かれ民族の維持発展には致命傷となるであろう。それは一般民衆が学力を学歴と混同すればするほど、瑣末な年頭月尾の雑学に加わった虚飾の傾向を以て大学の退廃に繋るだけだろう。特に学生集め及び振り落とし競争試験の難を免れない私立大学では、この危険はもう現実になっている。大学教授は学位授与を同学閥出身者に敢えて限る恣意により、やがては己れが首を絞めることになるのだ。権威の根本が高い学識にあるという大原則を見誤り、虚名のために学位を悪用したとなればこの大学名は長らく、民族の汚点に数え挙げられるばかりである。よって、単なる業績以外の、旧態狭い学閥住み分け的情実を潔く棄てきれなかった学校法人から先に、市場敗退して行くのも又、来るべき自由化の結末である。実力派の絶えざる産業改革、高等教育の普及で国民教養が高まったあかつき、国立大学にも然らば学位の信用が疑念に揚がるほど同じ寒波は避け様がない。入試でしか学力は問われない自称大学の遊戯場が、世界各国を見渡せば遥かに見劣りする評価しか与えられないのは当然だ。学力の足りない学者先生はつねに、世間で変人と呼ばれるに過ぎないのだった。
例えば夏目漱石が文学博士を拒絶した理由も、こういう低く卑しい民度にあったと悟らねばならない。博士号とさえ訊けば業績如何、本質的な意義如何を問わず恐縮低頭する肩書き崇拝民族には、学位論文さえ書き方を習えばそれは天下の大学者先生という訳らしい。この論文が若し、米屋の日記より全く無価値であっても。そういう日本人とやらは、隣国民がみな少なくとも修士以上を持っていることで何やら分からず圧倒され下らない空論に時を費やし、人間生活で丸損を買い占める運命がお似合いだ。