2008年8月27日

科学熱の思議

人間が有限の一生の中で得らる知識の質量から言っても、その洗練ということは是非の中核なのは疑いない。如何なる科学の徒も、究極の真理を発見することに加えそのうつくしい表現というのが少なくとも、たしなみでもあり目当てなのである。逆にいえば科学の目的は記号配列のしあわせなのだろう。そしてそれより他に為しうる訳ではない。Pragmatistが明瞭な表記を貴ぶのも一つの流派で、難渋な解読をたのしむ有閑の徒にとってのこのましさは少なからず、この趣きをpopularなもの、通俗説の書き下しとも取れるところだろう。どの名文もまなばれることに意味を見つけられるから、知識の伝承の為には通俗的な表記が望ましい。情報がめずらしいほどにそれが金言という価値を帯びるなら情報文明の学識は共有の場を広げれば、翻って需給を一致させる。例えば電子レンジを知らない大衆の間ではこの製品の興味はないが、情報共有が進むに従ってこの需要は劇的に増大しやがては満ちる。
 よって、もし科学が定常状態に至るなら知識共有の最適化が需給をバランスした地点においてであろう。この面からすると教育というのは必ずしも自然なありさまではなかった。それが寧ろ知識の普及によって科学への熱烈な需要を打ち消してしまう暗面を免れないだろう。即ち、科学熱をつねに一定以上へ保つには知識の囲い込みをしなくてはならないのだ。だから、教育過剰というのは文明にとっては好ましい助長ではなかった。
 大衆の興味がより優れて洗練された趣味へと導かれるのにはいつでも工夫が要る。常識の度合いを効率よく精錬するのならあたかも飢えた砂漠へ雨を降らすまでは供給を絞れ。知識欲へ徹底的に飢えさせるが為には猿共を無知の荒野へ追い出しておくのが賢明なのだ。つまりまなびにくるまでことさら教えないでおくのが学問啓発の神髄。
 とすると通俗化が絶対に正しい文化ではないと分かる。それが一つの嗜みであって、なおも真書の為には文体のゆとりを保つならまだしも。難しいことがとるにたらぬ真似を遠避け、知識の希少化に貢献して科学への信仰を維持する原理であればこそ、限られた人生時間を有効にもちいて可能なだけの複合概念を知らず知らずの内に則っていく道のりとして文法へ書きあらわすのが、学者にとっては伝承義務より一層に高い目的である。科学の通俗化は必要でもない。学問に難解を恐れる理由はない。