2008年8月21日

清談

政治界への不信を払拭する最善の仕方は『公務の透明度を高める』ことに尽きる。マスメディアのみならず、芸能人の技巧を真似てblogに日常を記す閣僚が居てもいい。国家機密を平気で記しちゃう人材なんかはそもそも政治屋以前の胆力であろうし、向かぬ。

国民自身の批判的監視が隅々まで及べば、唯一の国府なのに癒着を隠蔽しているゴキブリ共の住処は集中豪雨に襲われるだろう。慌てて逃げ惑う姿をスカッとした気分で眺めていたのは賃金搾取されし若き労働貧者か、年金搾取されし退職老人か。
 しかしこの一斉の棚卸しなくして、国内最大の赤字を叩き出す真っ黒焦げ企業に蔓延るきたなき湿り気を、外部監査の天日干しで一掃する思い切りも出まい。怠惰が慣習化した授業参観の直前に大掃除する先生の名なんか実は、どの親にも知られているのだったな。

徹底的情報開示を不良抵抗勢力にかかわずらってまたも躊躇えば、日本政府の集権性そのものが揺らぐ前に商業趣味くさいサルマネ道州制誘導の悪業が祟るやら。やれ地方州民とやらが自活した経済力を担保に幕藩命令に従わなくなれば、このめでたい国もあのお隣の如く一家分裂してしまうんだろうに。なぜそんなありきたりな道理も見えないのか。
 代わりにシンプルな「地方制」としてより弾力化した税分割率調整handi capを含む柔らかな分権協業体制の方が遥かに、既存地方自治体の素早い団結と自発的工夫を絶えざる中央統制のもと引き出し易いのに。またまた無理な官庁自己満足の税収ばら蒔きダム建設が、我が国の清流から一品も美味しい鮎を追い出してしまったとして自称有識者諸君に天才官僚達はとうに某大量退職金で逃げ去った後だとは。はてさて、どうやら川床のビールもバドワイザーへ一律でいいやということらしいな。そうだ、それならここは《醜い国》と名づけよう。49番目の縁起わりいこんな濁った公害自由放任川で恵比寿とか頼めば全然風流でもなんでもないし、下らんから覇権に魂を売った奴らの一族の墓でも家でもぶち打ち壊しに行くか。

科挙風習の廃止、即ち手始めに「国家公務員試験の原則廃止」は成績徒用の弊害である試験趣味者の傲慢を挫くのにも、能力主義が基調となった今日の効率良い企業体験を財政改善へ活かすのにも充分なのに。必須なのは無駄知識だけでなく債務実績なのだ。
少なくとも閣僚会議から直接、ある重用な「省庁監査枠」へ一定勢力以上の民間企業から抜擢した経営適任者を送り込むのはtechnocracyを脱却するのにも国家公務員法に定めるべき当面の絶対課題である。官僚が役得席を入れ替えるには内閣権限を拡張する以外なにがある?
悉く科挙の及ぶ範囲は「公開議会主義」の国民視認が管理統制下になければならぬ。その外側に立つ如何なる公務員も民主政の根幹を揺らがす暗躍国賊である。