2008年6月28日

場所の変化

文明だけが、人類にとっては未知の適格を導く。そして史上のいかなる人類よりも優れて洗練された精神を生じるのも、科学民度の命じる文明場だけ。素朴な自然から離れて、少なくとも人工化された都市の何処かへ人間性を向上させるに適切な環境を見出す事、この過程が幾らかの悲劇に加えて多くの稔り多い結果をも持ち来る。啓蒙と呼ばれる計画は人間性自体を新たな適格へと造成する。総じて民族に渉る教養の度が、未知の場所を多数生じさせるのには肝要。結局は自ら興味を合理化なしえた分類に応じて、彼らの審美観は自然に対する啓蒙の側面を活かして来る。何も分からず唯、目の前の流れる川に沿って泳いできた人々、そういう人間には力強い啓蒙の性格はみいだされない。結局は彼らの定義は俗物という枠組みに当てはまるであろう。しかしこの種の俗物は単に、彼らの想像する限り最大多数の傾向に順応するという行動習性、いわば模倣適格によって人間の基底となる。
 彼らには何処まで辿ってもこの流れ以外には生き残る道がない。そして進化が現実のものとなってしまえば、俗物類は旧人類という種に範畴化されてしまうだろう。啓蒙されていない人間、未だ文明の光に浴しない人間の素朴で、或いは情緒的な感性、こういう世界観にあっては科学民度という事は期待にも挙がらない。彼らには理性は恐るべき冒涜なので、智恵を得る事、みずからの意志で考えるという事は深刻な恐怖を引き起こす異常な事態なのだ。
 だが自然は人類を理性によって開発する事で、却って内在因としての多様性を啓発し、世界を感性が為にも尚更感慨深くして行くものなのだ。人間の作り出すあらゆる形態が、自然現象を審美的な興味に沿って組み換える。結果として人間の具体的欲求はかつて我々が暮らしていた野生味溢れる世界にあったものとはまるで異なってくるだろう。我々は科学を通じて自然を内側から理解する機会を得、総じて人間の具体的欲求は自然の内面化を持たらすだろう。知性を秩序づける事で得られる最大の恩恵は、逆説として人間性自体を情報化する事である。人間のいかなる行いも、啓蒙された人々にとっては自然現象でない訳がない。いいかえれば、文明人の目にはどの文化も情報化しつつある数多くの造物過程だろう。自然と人為を対比させるという認識は、半開の特徴だった。我々自身のどの行いも、それらの文明化を様々な場面に応じて試すに過ぎない。理性はこの為には特長づけられる源泉。
 我々はつとめて文明化を目指すが良い。その啓蒙のどの過程さえいずれ未知の場合を造り出し、人間性を益々感嘆すべき多彩な趣きへと改良して行くだろう。だが、我々はそれらの最低限度さえ野蛮であった時代を降る事はないと結論できる。